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今は昔
                           ちんすこう



 第9話 運命
    

 運命とは自己努力により影響を与える事ができる、との見解に同意しながらも、ここでは流れに身をまかせた経験を紹介いたします。

 1991年8月18日夕方、モスクワのMホテルに無事チェック・インしたが、日本から長旅の疲れと時差の関係でうとうとして寝付かれなかった。部屋のカーテン越しに夜が明けたのがみえて、横になっているのが辛くなったので起きてテレビをつけた、時計の針が4時すぎを指していた。こんな時間にろくな番組しかない事は経験で知っていたのでCNNチャンネルを選択した。画面の女性アナウンサーが何時ものとは様子が違うのが気になった、視線は原稿にくぎ付けで口元でモサモサと話していた、ソ連のアナウンサーならば、いざ知らずCNNでははじめてなので、音声を高くして耳をたてた。聞こえてきた内容は「休暇中のゴルバチョフ大統領が病気の為にヤナエフ副大統領が代行する、ゴルバチョフとは連絡とれない模様。。。」との事であった。8時に会社の車が迎えにきて、現地運転手に尋ねたが何もきいていなかった、そして20分程度で事務所に到着した。

 ベルがガンガン鳴っていて、電話機の全受信回線が真っ赤に点灯していた。東京、シンガポール、韓国等の皆さんからで、開口一番に「大丈夫ですか、ソ連から脱出手立ては決めましたか。。。クーデターです」、何の事かさっぱり理解できなかった。今日は4月1日ではなかった、国際電話回線も遮断されていない、取りあえずは現地情報を収集する事にした。テレビを付けたら非常事態宣言の発表最中であった。運命を感じた。ヤナエフ大統領代行はアルコール中毒と聞いていたので理解できても、他の皆さんの浮かない顔、気合が入っていないのは何故か、これがクーデターではないとすれば何だろう。そこへソ連極東各地にあった合弁会社から電話が入り、皆同じ質問をする「モスクワで何があったんですか」、答えようがなかったが、全土の出来事ではないことがはっきりした。
 情報収集に努めたが現地では例の記者会見以外は事態の説明できる者いなかった、日本大使館関係者からも外出控える程度であった。この19日は早めに事務所を閉めた。

 20日朝は平常に始まった。そして午後、書類配達で外出していた運転手から私に
緊急電話がはいった、戦車です!ロケットです!多数の軍車輌が市内に向かっています!指示をくださいと電話の向こうで叫んだのだ。私はその内容よりも、中年運転手のパニックに驚き、はじめて緊急事態発生を認識したのである。会社の車を最寄の外交機関に預けて、地下鉄で帰宅するように指示をした。従業員にも同じ指示をした。
 日が落ちてから、突然帰宅させたはずの運転手が帰ってきた、訊くと私の事が気になったと言う、真相は知らないが嬉しかった、昨日は従業員をみすてて出国せずによかったと思った。運転手に上等なウオッカ2本を持たせて地下鉄駅まで送って、Mホテルに向かった。普段15分程度の道のりが3時間かかった、Mホテルは政府庁舎ホワイト・ハウスの300メートル程先だがバリケード等で道は数ヶ所寸断されていて銃声もきこえた。ホテルでテレビをつけたら市民との生々しい衝突中継していた、初めて身に恐怖を感じた。しかし、私の腹は決まっていたので、いたって冷静であった。

 21日は戦車、軍車輌を横目に、Mホテルから一旦は外環に出てから市内の事務所に入った。運転手だけが来ていた、顔は睡眠不足で相当緊張しているようにみえた、「大丈夫、今日から事務所に泊まる、風呂場も台所も完備しているので長期に耐えられる」と伝えたら安堵したようだ。午後、友人から嬉しそうな声で電話があった「終わったよ、軍が退去をはじめた、ウラー!」。すっかり忘れていたが、今晩は私が夕食に招待されていた日であった、モスクワに入る前からの約束でMホテルのRレストランだが、当然延期のつもりで確認の電話を入れたら、予定通りにお待ちしますと言われて、半信半疑でレストランに行った。そして、私達だけで一卓をかこみ貸切の晩餐会がはじまったのであります。

エピローグ
晩餐会の帰りにホワイト・ハウスの前で車を止めて勝利を祝い、シャンペンを飲み干し、記念写真をとった。日付が印字された写真を私は今も大切に保管しているが、そこに写っているホスト役の親日家、本省局長と公団副総裁二人共は、もうこの世を去ってしまった。


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