「浜っ子」
(第108話)
祖父は大分県の竹田を出奔して横浜に来た。
イギリスの炭酸水屋の丁稚から独立して横浜に根を張った。
遠い九州からどういう伝手で横浜に来たか、母から聞き逃した。
祖母は神戸の灘の出身である。
まだ東海道線が御殿場経由の時代に遠く横浜まで嫁に来た。いきさつはやはり聞き逃した。
父は埼玉県寄居の農家の出身である。
父の兄は長く出征していて、その間祖父母は父を離さず、小学校の代用教員をして過ごした。
長男の帰還を待ちかねたように故郷を飛び出し、横浜の名門「明治屋」に努めた。
そこの役員の紹介で母と見合いをし、祖父の会社を引き継いで横浜で暮らすことを決心した。
母は長野への学童疎開の一時期を除いて、横浜を離れたことはない。
横浜第一高女の時、横浜大空襲を経験し、磯子から平沼まで焼け跡を歩いた。
兄もまた横浜の地方銀行に就職し、横浜を離れたことがない。
私も、ロシアに住んだ(つまり横浜に住民税を払わなかった)一時期を除いて、横浜に住み続けている。
各々が様々な家族のヒストリーを抱えて、横浜は大きくなった。
高度成長前は横浜は地方都市だった。
1961年突然磯子の海がなくなった。
小学校一年の夏休み明け、校舎の窓から見えた遠浅の海がなくなり、埋立地にダンプカーが砂埃をたてて行き来していた。
海に面していた小奇麗な料理屋が所在なげに孤立していた。
次の年小学校は磯子プリンスホテルの裏山に移転した。
新しい四階建ての校舎の前に、大きな団地が出現した。
毎月何人かの転校生が黒板の前であいさつし、入学時2クラスだったのがいつのまにか4クラスになった。
以前の木造校舎の跡地はすぐ磯子区役所になり、その先の海のなかに磯子駅ができた。
桜木町から京浜東北線が延伸して根岸線ができたのである。
根岸線はその後新杉田から山に入って最終的には大船につながった。
根岸線は本牧のトンネルをぬけたあとは、さぞかし建設は容易だったろう。根岸から杉田までは埋立地を一直線に走らせ、その先は畑と雑木林だけの丘陵地だった。そこに洋光台、港南台、本郷台といった駅名がつけられた。
後年東京から関内で降りるところが、寝過ごしてこれらの駅で取り残されたことが何回かある。
寝ぼけた頭で駅名の順番をなぞった。どこも巨大なニュータウンが前方にあって区別もつかなかった。
ともあれ根岸線の現出は横浜南部を劇的に変えた。
昔の浜っ子は東京に用事があるときは、服装を整え「よそゆき」の顔をして、市電かバスで桜木町か横浜駅に出た。
東京から元町や南京町に遊びに来るにも、夜霧の第二国道を酔っ払い運転で飛ばした慎太郎や裕次郎を除いて、必ず桜木町で油まじりの海の香りを嗅いでから市電やバスに乗り換えた。
どうも不便であることが思い出を純化させるようだ。
不便といえば、伊勢佐木町のストリートミュージシャン出身の「ゆず」の生まれ育った町は磯子区岡村である。
美空ひばりの生誕地滝頭のすぐそば、私の家からも歩いて20分ほどの距離である。
岡村は昔も今も不便なところだ。根岸線の根岸、磯子、京急線の上大岡からほぼ当距離で、どこに出るのもバスで行くしかない。
若い二人は岡村からギターをかかえてバスに乗って、ほかの乗客の邪魔になるのを気にしながら、伊勢佐木町に通ったことだろう。
彼らの歌に「桜木町」というのがある。
桜木町でいつもデートの待ち合わせをして、桜木町で初めてキスをして、桜木町で別れを告げたという浜っ子の歌である。
私も今でも桜木町を待ち合わせ場所にしている。旧い悪友たちと野毛で飲むためだが。野毛は見事に変わらない。
横浜は開港以来すべてを受け入れてきた。
アイスクリームやビールだけではない。
港も進駐軍も山手のミッションスクールもすべて横浜を形作っているのだ。
中華街が横浜の縮図のような気がしている。昔は中華料理屋は表通りにあるだけだった。それが今では裏通りにまで立錐の余地がない。
中国から渡ってきた青年と家族の小さい店も今では有名店になった。
横浜は大きくなった。
突然ふるさとがなくなったり、将来もふるさとに住めなかったり、災害でなくとも衰退していくふるさとを捨てざる得ない人に比べて、浜っ子であることはなんと幸福なことであろう。
「浜っ子ノスタルジー」は今回で終わりにします。また別のテーマで書こうと思っています。
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