放課後は
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ハマっ子ノスタルジー

       
 

     
 「昼メシの話」
 (第100話)

 以前にも話したが、元町幼稚園の給食はひどくうまかった。
 何せ元町である。家ではお目にかかれない洋食がでたのであろう、「美味しかった」と幼稚園の先生に言ったら、「それでは給食のオバサンのところにお礼に行きましょう」と調理場まで引率された。
 私と何人かの園児が並んで「ありがとうございました」と声をそろえた。子供は子供らしくふるまうことをよく知っていた。こまっしゃくれたガキだった。
 公立小学校の給食はなんと言っても脱脂粉乳である。うまいとは思わなかったがべつに苦痛でもなく、泣きそうな隣の女の子の分も飲んであげていた。
 一度給食当番の生徒がつまずいて、脱脂粉乳の大きなバケツを床にぶちまけた。生暖かいミルクの臭いが当分消えなかった。
 給食当番のヤツは脱脂粉乳が死ぬほど嫌いなのだろうと、悪友たちで噂した。新たなバケツが届いたかは忘れた。
 小学校六年になって週一度予備校に通い、その帰り道欠かすことなく菊名駅で立ち食いそばを食べた。自分で払う初めての外食である。
 天ぷらそばが55円、かけそばが40円で、いつもその二杯を食べた。そのうちかけそばに天かすをふりかけてくれるようになった。常連客の気分も初めて味わった。
 中学高校と弁当の時代である。
 母もよく毎日作ってはくれたが、オカズの汁がよく教科書を汚した。
 高校生にもなると「早弁」が常態化した。始めは授業中教科書を立てて食べたりもしたが、別にそんなリスクを犯す必要もないことを悟り、二時間目が終わった十分の休憩時間に自然にたいらげるようになった。
 一度学校出入りのパン屋の息子のIに、同じサッカー部のMに何かの(もう忘れた)の仕返しをしたいと相談された。どうもこうした相談は私のところに来るようだった。
 二時間目が終わってMの弁当を持って講堂の裏まで走り、二人で急いで食べて、さらに弁当箱をきれいに洗って戻した。
 隣のクラスのMは何の痕跡もない空の弁当箱に驚愕し、お母さんが忘れたのではないかと言う、事情を知る回りの声をはねつけ、次の日に私のクラスに怒鳴り込んできた。
 浪人時代昼メシの場所はほとんど雀壮だった。駿河台下という学生街の出前は安いものだった。
 たまにパチンコ「人生劇場」のそばの「いも屋」で天ぷら定食やとんかつ定食を食べた。定価五百円は就職後たまに訪れてもずっと続いていた。
 大学の学食は最後までなじめなかった。80円のカレーは一度だけ食べた。
 かといって四谷の街は、御茶ノ水や早稲田ほど学生に優しくなく、唯一なじめたのが同級生のバイト先のニューオータニの社員食堂だった。
 迷路のようなホテルのバックヤードを通って、社員食堂は日本庭園を臨む窓が開けていた。
 入社時、通勤の定期券と一緒にバスの回数券のような社員食堂の食券を渡された。確か一枚250円で、同額会社の補助があると総務の女性がもったいぶって言った。
 大手町は外に出ても、高くて不味くて混んでいて、とても食の楽しみを味わえるところではなかった。必然社員食堂で間にあわすことになる。
 サラリーマン生活に慣れると、混雑が嫌いな上司に誘われて12時前に食堂に行くようになった。早弁の習慣はずっと続いたのである。食べ終わって席に着いて、ほかの上司や同僚に誘われると断るもせずまた食堂に行った。
 必然的に食券が足りなくなり、隣のOLにあきれられながら売ってもらった。
 社員食堂は定食2種類と麺類のみだった。一度例によって早めに食堂に行くと、「キツネ丼」というのがあった。メシの上に大きなアゲが鎮座しているのみだった。
 会社の補助は場所の提供のみだったのではないかと今も疑っている。

 
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