放課後は
さくら野貿易
放課後のページ

ハマっ子ノスタルジー

       
 

     
 「横浜ダンデイズム」
 (第101話)

  第三京浜横浜出口の三ツ沢から戸塚までのバイパスを、昔「ワンマン道路」といった。
 「吉田茂が大磯から東京でるのに渋滞ひどくて頭きて作らせたんだって」
 ワンマンとは自分勝手な人のことを指す当時の和製英語である。母の説明には吉田茂への好意が込められていた。
 私が物心ついたころすでに吉田茂は政界から引退していたが、たまに新聞に、大磯の別邸の縁側で葉巻を燻らす吉田翁の写真が載っていた。
 長い外交官生活で欧米の香りがする吉田翁は、浜っ子の母の好みだったのだろう。
 当時の大人は、子供たちからそれなりの敬意をこめて見られていた。特に明治生まれの老人たちには、子供だけでなく、大正、昭和ヒトケタ生まれの親父の世代も頭が上がらなかったようだった。
 「おじいちゃんはダンデイだったのよ」
ファザコンぎみの母はよくそういっていた。
 私が生まれて一月あまりで亡くなった祖父の記憶は無い。わずかに残っている写真や、事務所にかけられていた肖像画を観て想像するしかなかった。
 蝶ネクタイの肖像画や外車の前で誇らしげに胸をはる写真を見る限り、確かにダンデイなのだろうが、大分を出奔して横浜でそこそこ成功した「背伸び」が見え隠れする。
 炭酸水を収める得意先の酒屋の主人やホテルの役員に伍していきたい気持ちだったのだろう。
 祖父や父が残したホームバーセットは、出来損ないの三代目の飲酒を早める結果になった。
 昨年亡くなった旧友Ikと、亡くなる前の数週間メールで昔話をした。
 彼のご尊父は横浜の倉庫会社の勤め人だったそうだが、背広は必ず馬車道のテーラーで作り、床屋もわざわざ市電に乗って関内まで通っていらしたそうである。
 明治まれの老人たちが第一線から退かれたころから、「ダンデイ」という言葉が死語になった気がする。
 高校時代仲間はみんな植草甚一のエッセイを読んでいて、彼の生活スタイルにあこがれたが、自由人すぎて、ダンデイとは少し違う気がする。
 私もダンデイからほど遠い大人になってしまった。
 
【掲載作品一覧】