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ハマっ子ノスタルジー

       
 

     
 「フォークソングの時代」
 (第106話)

 初めてレコードを自分の小遣いで買ったのは、1968年フォークルの「帰ってきたヨッパライ」である。
 深夜放送を聴き始めたころ、このフザけた歌が毎日のようにかかっていた。横浜駅西口ダイアモンド地下街のレコード店で衝動買いしてしまった。
 フォークルはその後「悲しくてやりきれない」「青年は荒野をめざす」などをだして、わずか一年余り疾走して解散した。
 北山修の医学生に戻るという解散理由が、中学生の自分にはカッコよくて、京都のキャンパスライフにあこがれた。
 「イムジン河」は、朝鮮の原詩と違うという総連の抗議で放送自粛となったが、当時どこかで聴いた。ラジオではないはずだが、どこで聴いたのか思い出せない。
 井筒監督の「パッチギ」も京都が舞台でフォークル満載だった。クライマックスの鴨川乱闘シーンでバックにイムジン河が流れていた。
 なぎら健一の相撲をおちょくった「悲惨な戦い」も放送禁止だったが、これは禁止処分直前にラジオで聴いた。若秩父など実名だしちゃまずいだろうと高校生ながら思った。
 当時フォークル以外にラジオで流れていたフォークシンガーは、高石ともや、赤い風船、六文銭、高田渡、遠藤賢司、加川良などである。
 近年亡くなった高田渡は、最後までフォークシンガーを貫いたようだ。テレビで観た最近の楽曲も、メロデイラインは「自衛隊に入ろう」と変わりなかった。
 晩年のコンサートでは、酔いがまわって舞台で居眠りしても、観客は高田翁が起きるのをじっと待っていたそうだ。
 六文銭の作詞家及川恒平とは後年六本木のバーで同席し、数年間年賀状のやりとりをした。温厚な人だった。
 数あるフォークシンガーの中からやがて岡林信康に行き着いた。
 高校生のとき、すでに神格化された岡林を、一人で日比谷野音に聴きに行った。
 ほかの歌手もいたが、聴衆の目的は失踪後久しぶりに登場する岡林のみだった。吉田拓郎などは帰れコールの嵐だった。すでにメジャーになった拓郎に反感をもつ固陋のフォークファンの反応だった。
 当の岡林は、フォークの神様あつかいを嫌がって失踪したわけで、はっぴいえんどを従えて完全に「ロック化」していた。「手紙」「チューリップのアップリケ」といったプロテクトソングはひとつも歌わなかった。
 大学生のとき再び岡林と出会う。
 デモの前の集会で必ず歌われるのは、政党色のない岡林の「友よ」だった。おかげで今でもアカペラで歌える。
 拓郎もフォークソングの巨星である。「我々」ではなく「俺」をひたすら歌った。フォークジャンボリーで「人間なんて」を30分続けたのである。
 岡林の前に行った初めてのコンサートはトワエモアだった。新聞の販促品か何かだったのだろう、関内の横浜体育館に母と行った。
 トワエモアの曲の中で「虹と雪のバラード」は少し異質な気がしていたが最近解題した。
 作詞家が河邨文一郎という北海道在住の詩人であったことを知ったのである。
 札幌オリンピックは、北海道開拓民の苦労が報われた一瞬だった。北海道の老詩人が心を込めた賛歌だったのである。
 トワエモアもそうだが、ジョーンバエズから森山良子、赤い風船、さらに本田路津子、ダカーポといった美声の女性歌手も好きだった。
 中でも好きな歌声はチェリッシュの悦っちゃんだった。
 青江美奈や五木ひろしもあいさつに来たという、伊勢佐木町の老舗のレコード店で流れた、彼女のデビュー曲の「なのにあなたは京都に行くの」を聴いて瞠目した。やはり京都である。
 彼女も出自はフォークシンガーなのである。
 四畳半フォークから中島みゆきの話はまた次の機会にしたい。

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