「占領地横浜」
(第107話)
私は昭和30年生まれである。
最も古い記憶のひとつに、父の会社の年一回の社員慰安の宴会がある。
工場の二階の、普段は両親と兄と川の字で寝ている八畳間と六畳間の間の襖を取り払って、宴会場にしていた。
自宅の寝所で宴会やるのだから、当然幼い私も顔をだした。
「浜の日本橋」のはずれに住んでいたから、芸者さんも二三人呼ばれていた。
私はちゃっかりと芸者さんの膝に座って、若い社員が三味線の伴奏で歌う歌謡曲を聴いていた。
コミカルな「おーい中村君」がお気に入りだった。
宴会も終わりの方になると自然に軍歌が多くなった。皆ソラで歌えるのである。そして「戦友」は合唱になった。
昭和20年マッカーサーは厚木に着陸し、日本政府の出迎えも無視して、横浜のニューグランドホテルに駆け込んだ。
敗残日本兵のゲリラ攻撃を恐れたのである。
硫黄島やマニラ市街戦の日本兵を見てきたマッカーサーが恐怖するのもよくわかる。
現実には何も起こらず、横浜中心部の接収が開始された。これも何の抵抗もなく終わった。
横浜港の港湾施設はすべて、中華街(その頃は南京町と言っていた)を除いて、山下公園から山手、本牧、根岸にいたるまで、さらに伊勢佐木町界隈もフェンスで囲われた。
実家の事務所にある昭和20年代の絵には、山下公園にカマボコ兵舎が建てられているのが見える。海岸通りにはまだ車は少ないが、遠くに見える大桟橋あたりには船があふれている。
今は半ば韓国村になっている伊勢佐木町裏の福富町にもカマボコ兵舎が並んでいたそうである。
昭和27年サンフランシスコ条約のあと、世襲が解除されたのは昭和30年頃だそうである。
幼稚園児くらいのとき、伊勢佐木町不二家のバニラサンデーやチョコレートパフェの記憶があるから、それは今から思えば、有隣堂の絵本にしても不二家にしても返還わずか5年後のことだったのである。
接収解除とといっても、基地は埠頭の一部、本牧、根岸台にかなりの広さで残った。朝鮮戦争で東西衝突が顕在化した時期だった。
初めて日本に恒久的基地を置くことを発表したのは、当時横須賀海軍基地トップのデッカー大佐だった。
彼はその数年前、カトリックの修道会に横須賀基地の一部を供与し、中高一貫教育の学校建設に協力した。
母校の20周年記念誌には、彼とドイツ人校長が横須賀基地の岸壁で、将来の日本の青少年教育の夢を語るシーンがある。
我が母校はこうして造られ進学校になった。
小学校の同期に白人系ハーフの男の子がいた。父親は米軍を除隊して磯子の小さい日本家屋に住んでいた。
彼は当然一回り体も大きく、エネルギーを持て余していた。彼の鬱屈が子供にもわかった。
六年生のとき、彼に校舎裏での決闘を申し込まれた。
彼は別のクラスだったし、さしたるきっかけや遺恨があったとも思えない。単にテストの成績がいいだけでエラそうな顔をしている私が生意気に思えたのだろう。
私は無視し彼は「きたねえな」と毒づいたが、結局沙汰止みになった。
彼は高校時代バスケットで名を馳せたが、その後は知らない。
当時はハーフという呼称はなく、大人たちは陰で「アイノコ」と呼んでいた。
ハーフがもてはやされるようになったのは昭和40年代なかばのことである。
高校の友人は基地の中のアンルイスの家を訪ね、私はその友人の松尾ジーナを紹介してもらうことを期待した。
返還前の沖縄から来た南沙織がアイドルだった時代である。
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