ハマっ子ノスタルジー

『横浜の表通り』
(第11話)
                              広瀬裕敏

 1960年頃、横浜の表玄関は桜木町駅だった。
 まだ根岸線は開通せず、桜木町が京浜東北線、東横線の終点だった。古い駅舎に、古い富士山の大きな絵がかかっていた。
 といっても桜木町駅前に繁華街があったわけではない。少し歩くと野毛の飲み屋街があるが、これは表通りとはいえない。横浜の裏通りについては、また別の機会に述べたい。伊勢左木町に行くにも歩いて10分、元町にいたっては市電に乗り換えて10分かかった。
 要は、横浜は東京とははっきり隔絶した文化圏だった。
 横浜駅西口にようやく駅ビルができ、高島屋が進出してきて、繁華街の体をなすようになったが、どうも横浜駅周辺は私にとって他郷の感がある。
 「浜っ子」にとって横浜とは、いやみな言い方だが、桜木町からこっちを指す。中区のことである。
 ただ中区でも本牧岬を越えれば何も無かった。磯子の砂浜を見下ろせる、宮様の別荘を買収した、磯子プリンスホテル(現横浜プリンス)は半分リゾートホテルである。さらにその先の金沢はもう鎌倉文化圏である。
 中学生になる頃、京浜東北線(根岸線)が磯子まで延びた。(後に洋光台まで、最終的に大船につながった。)
 伊勢左木町商店街の話をしたい。ようやく近くに関内駅ができたのだが、伊勢左木町の繁栄の頂点は、実は根岸線開通以前だった。集客力で横浜駅西口に負けるようになった。
 青江美奈の「伊勢左木町ブルース」が流行ったとき、こんなに街のイメージにそぐわない歌は無いと思った。夜の盛り場は、伊勢左木町裏の福富町や野毛であって、浜っ子にとって伊勢左木町はあくまで表通りだった。
 余談だが、いしだあゆみの「ブルーライトヨコハマ」で、横浜のイメージと、山下公園から外人墓地に至る横浜のデートコースが確立した。
 伊勢左木町一丁目には、本屋の有麟堂(経営者一族の一人が小学校のPTA会長だった)、地元デパートの野澤屋、元町から本店を移したばかりの不二家が軒を連ねていた。
 数ヶ月に一度、母がデパートで買い物をして、その後不二家のパーラーでフルーツパフェとかサンデーを食べさせてもらうというコースが、幼い頃の楽しいセレモニーだった。
 日曜日の伊勢崎町の人ごみの中、傷痍軍人が白衣を着てアコーデイオンを奏でていた。母から小銭をもらい箱にいれた。今はメジャーデビューもあった若者の路上ライブのメッカである。

【掲載作品一覧】