ハマっ子ノスタルジー

            

横浜の外食』 
(第14話)
                             広瀬裕敏

 母は常々横浜にはおいしいものが何でもあると自慢していた。 母は横浜で生まれ、横浜で育ち、横浜で死んだ。大人になってから私が、他の町にもおいしいものはたくさんあると反論したら不満そうな顔をした。信州の疎開以外一生を横浜で過ごした母は、横浜を誰よりも愛していた。
 母の主張の根拠は、ひとつは南京街の中華料理、ひとつは港町の洋食である。
 とはいっても私が小さい頃外食ばかりしていたわけではない。子供の頃、母がたまに頼む店屋物は「五目中華そば」だった。横浜では「サンマーメン」といった。
 法事で利用するのは、南京街の華勝楼と決まっていた。南京街の裏通りにはいったら、さらわれて外国に連れて行かれると大人たちに脅かされた。
 ずっと後になって、裏通りの、当時から有名な海員閣に友人と入ろうとして、あまりの行列の長さに断念して、向かいにあった順海閣にはいった。おそるおそる頼んだ大盛りチャーハン、大盛り焼きそばは馬が食べるほどの量で値段も適当だった。やがて高校卒業後何度も宴会に使うようになった。まだ中華街の裏通りが舗装もされていなかった時代である。さらに時がたって、中華街も観光客であふれかえるようになった。順海閣も隆盛をきわめ、新館、別館と大きくなっていった。柱の一本くらいは、私と私の友人たちの支払いでまかなわれたに違いない。 南京街で量を追求する以外に、まだ酒を覚える前は「馬車道十番館」でよくチョコレートパフェを食べていた。ようやくコーヒー専門店ができはじめた頃である。
 酒を覚えて、私の最初の舞台は「野毛」だった。「みなとみらい」と桜木町をはさんで広がる野毛は、今も変わらぬ町並みである。酒場の話は次の機会に譲りたい。
 「港町の洋食」とは、外地から帰ったひと、船から上がったひと、日本人と結婚して日本に居ついてしまった外国人船員が開いた洋食屋をさす。
 「フィリピン食堂」という店はいまだにあるが、多分フィリピンの戦地から戻られた人が始められたのだろう。
 曙町近辺にギリシャ料理屋、ギリシャ風バーが何軒かあった。「スパルタ」というギリシャ料理屋には何度か行った。日本に住み着いたギリシャ船あがりのコックは、興がのるとギリシャのダンスをみせてくれた。曙町は十年前くらいからセックス産業の店で埋め尽くされるようになり、やがて押し出されるかたちでギリシャ村は消えていった。
 実家のある「浜の日本橋」には二軒の洋食屋があった。一軒は士官学校出の主人の店。もう一軒は日本郵船の客船のコックだった。士官学校出の主人の店は「幸亭(さいわいてい)」といった。幸亭の奥さんは母と同い年で、数少ない母の友人だった。父を亡くした後、母のつきあいで月に何度か食べに行った。母は毎回何にしようかといいつつも、結局エビフライを注文した。
 戦後すぐから変わることなく下町の洋食を供してきた幸亭も、母の亡くなる数ヶ月前に閉店した。

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