ハマっ子ノスタルジー

            

小学校』 
(第15話)
                             広瀬裕敏

 1961年の夏に埋め立てが始まった。
 小学校に入学したとき、校庭の先に広がっていた磯子の砂浜は、夏休みの後完全になくなっていた。ブルドーザーとトラックが行きかう埃っぽい陸地を小学生たちは呆然と見ていた。
 高度成長期である。誰もが日本の発展を信じ、回顧や批判など騒音にかき消されていた。坂本九の歌が流行り、皆前を向いて歩いていた。
 磯子の海水浴場がなくなった替わりに、横浜市が根岸駅近くに市民プールを造り、小学生に割引券を配った。
 小学校2年生の夏に小学校は汐見台に引っ越した。二階建ての古い木造の校舎は、4階建ての鉄筋コンクリートに代わった。新しい小学校の前面には、「団地」のアパートが林立し、さらに発展を遂げていた。
 小学校入学時二クラスだった学年は、4年生のとき四クラスになり、近くに別の小学校ができてようやく増殖を停めた。
 つまりクラスの半分は団地の子供たちで、残りの半分は前からある一軒家あるいは長屋に住んでいる子供であった。
 前者は百パーセントサラリーマンの子息であり、後者は、さすがに漁師の子供はいなかったが、半数は商家の子供であった。
「横浜スカーフ」を輸出する貿易商の息子を二人知っている。ともに横浜山手の聖光学院に進んだ。
 小学校6年生のクラスの男の子は当然のごとくふたつのグループに分かれた。ひとつは団地の子供たち、つまり転校生たちであった。私の学校では転校生は何の気兼ねもなかった。なにしろ半分の勢力なのである。
 ちなみに私のような学区外越境入学生徒は、もうひとつの地元民グループに属し、不遜にもガキ大将面していた。
 ふたつのグループが敵対していたわけではない。一緒に遊び、一緒にいたずらをし、一緒に先生に怒られた。クラスの男の子で仲間はずれはなかった。仮にひとつのグループで疎外されても、もうひとつのグループに転籍すればよいわけである。
 担任の先生は温厚な方で、ふたつのグループのガキ大将を、一番前のはじの席に並んで座らせた。
 団地グループのガキ大将とはお互い認めあって、譲歩することを覚えた。
 中学は別々になったが、中学生になって初めて自分の小遣いで映画を観たのは、彼とである。

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