ハマっ子ノスタルジー

                   

『ゲーム』 
(第17話)
                             広瀬裕敏

 最近法事で親戚が集まったとき、幼い兄妹がゲームを片時も話さないのを見て、大人たちでひとしきり昔の遊びが話題になった。
 小学校低学年のころ、室内遊戯としては(いや室内ではなく路地裏でやっていた)、メンコ、ビー玉、コマ廻しなどがあった。相手のコマをはじき出すなどして、勝ったら相手のコマをもらうという、すべてについて賭博性を伴うものだった。
 市販のメンコの代わりに、牛乳ビンのフタで争うのが流行った時期もあった。うまい子供はたくさんのフタを集めて得意げにしていた。
 夏になると、教育熱心な母はたまに自然の中で昆虫採集に連れて行ってくれた。
 鎌倉街道を上って、上大岡の先の日野あたりはまだ田園風景が広がっていた。まだ農薬の影響も少なかったのだろう、たいした技量も必要なく、カブト虫もクワガタもふんだんに捕れた。
 父の田舎は埼玉の寄居にあった。叔父の家の屋根裏ではまだ蚕を育てていた。年長の従兄弟は、自然の中で遊ぶ術を知らない都会っ子の私のために、竹とタコ糸で手製の弓を造って遊ばせてくれた。畑の中で遠くまで矢を飛ばす快感は初体験で、牛乳ビンのフタのやり取りなどつまらないと思った。
 長じて、パチンコも麻雀もビリヤードも覚えた。
 パチンコはまだ手打ちの時代で、少ない元手でも結構長時間遊ぶことができた。まだタバコを覚える前で、勝ち玉でチョコレートを両手でかかえきれないくらいとって喜んでいた。今は温泉場にしかないスマートボールも繁華街の真ん中にあった。
 ビリヤードは浪人時代に通った。御茶ノ水の神田川沿いの玉突き屋である。昼間だったせいか、あるいは場所柄か、不良の溜まり場という感じはしなかった。ハスラーという言葉の響きにあこがれたが、奥の深さを知って入り口で断念した。
 ゲームセンターにも行った。その頃のゲームセンターの主役はピンボールである。盤面いっぱいにけばけばしいアメリカの戯画が描かれ,玉をはじくたびにイルミネーションが踊った。点数をカウントするときの金属音は、アメリカの不良になった気分に高揚させてくれた。
 1970年代前半の、ブロック崩しやインベーダーゲームができる前の、まさに「1973年のピンボール」である。

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