ハマっ子ノスタルジー

           

『戦争を知らない子供たちー時代』
(第18話)
                             広瀬裕敏

 
 フォークソングの話である。
 中学高校と成績は悪かった。小学生のときの成績の慢心もあって、中学にはいってからとにかく勉強しなかった。あり余る時間を無為に過ごした。
 やがて本と映画と音楽が私を救ってくれた。それらは空虚な時間を埋めてくれただけでなく、形をなさなかった鬱屈を代弁してくれた。
 本のことはまた述べるとして、フォークソングの話をさせていただきたい。
 フォーククルセイダーズの「帰ってきたヨッパライ」を、横浜駅西口地下街で初めて自分の小遣いで買ってから、フォークルは気になる存在だった。わずか一年たらずで北山修が医学生に戻るという理由で、活動を停止したこともかっこいいと思った。
 その短い活動期間中に、「イムジン河」という歌が販売自粛となり、その経緯を知り、さらに朝鮮半島の現代史をかじることができた。
 当時(60年代末)は関西フォークの全盛であった。高石友也は「受験生ブルース」を歌い、岡林信康は教祖視されていた。70年にはいってから、たしか日比谷野音でフォークシンガーが一同に介するコンサートがあった。その頃すでに隠棲気味だった岡林は、熱狂的な歓声をもって迎えられた。一方既にヒット曲をもっていた吉田
拓郎は、帰れコールで音をかき消された。
 岡林の「チューリップのアップリケ」や「手紙」で「部落」というものの存在を知った。
 つまり私にとってフォークソングは、学校で教えてくれない社会の窓だった。横浜の少年はそれほど無知だった。
 日本のフォークシンガーからアメリカのシンガーたちに関心は遡っていった。ジョーンバエズ、ピーターポールアンドマリー、そしてボブデイラン。彼らの歌詞の英語は安易であり、そして主張はシンプルだった。
 70年代にはいると、徐々にプロテクトソングは流行らなくなる。
 拓郎は「結婚しようよ」と歌い、井上陽水は「傘がない」で、今の関心は遠い国の戦争より傘がないこと、と居直った。荒井由美は「いちご白書をもう一度」で学生運動の敗北を宣言した。
 そうは言っても、「四畳半フォーク」も好きだった。かぐや姫や「池上線」はいまだにカラオケで歌う。
 私が二十歳のとき中島みゆきが「時代」で登場し、いつしか中島みゆきフリークになり、それは今も続いている。
 フォークシンガーなるものになりたかったが、それは果たせなかった。サッカーのゴールキーパーで全部の指を突き指して、ギターもキーボードも弾けなかったからである。(実はドラムにもトライしてみたがリズム感がまるでないことが判った。)
 そんな時代もあった、のである。

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