ハマっ子ノスタルジー

       
『酒ー横浜篇』
(第21話)
                             広瀬裕敏
 
 酒を覚えたのは早かった。
 物心ついたときから、実家の居間に洋酒をそろえた大きな棚があった。祖父がそろえたのか、父の趣味だったのか定かではないが、そもそも実家は炭酸水も作っていて、ニューグランドのバーにも納めていたと聞いた。炭酸工場の二階に、カクテルセットが鎮座していてもおかしくはない。
 高校2年のある日、家人が寝静まってからふと思い立って、カクテルを自分で作ってみようと居間に忍び込んだ。
 アンクルトリスのカクテルレシピーの小冊子があって、第1ページから製作にかかった。シェーカーの振り方も解説してあった。
 今でも覚えている。第一作はマテイーニ、第二作がサイドカー。3ページ目はマンハッタンだった。第四作はヨコハマだったか。4杯飲んだ時点で気持ち悪くなり、トイレで吐いて以降の試飲を断念した。
 とにかく大人ぶりたかったのである。学校では、酒ならまかしておけと吹聴してまわった。
 そのうち友達の家で飲むようになった。場所は鎌倉の大きなパン屋の2階か、港の見える丘公園からワシン坂をくだったところにある友人の家だった。本牧の友人の家は、彼の部屋だけ母屋から独立してプレハブで造られており、出入りはまったく自由であった。一番安い国産ウイスキーは380円だった。
 高校3年になるともう体もできてきて、店でも歳を問われることもなくなり、居酒屋でおおっぴらに飲むようになった。
 最初は野毛で飲むことが多かった。野毛は焼け跡から安く飲ませてくれる焼き鳥屋が無数にあった。一度痛飲したあと、酔いを醒まそうと、老舗のジャズ喫茶ダウンビートに入った。大きなスピーカーの前の席しかあいておらず、あまりの音量に気持ち悪くなって吐いた。ダウンビートには1年近く行くことはできず、ジャズを聴きたいときは、もっぱら「ちぐさ」を利用した。
 なんだか吐いた話ばかりである。そのうち自分の酒量もわかってきた。
 高校3年の秋の修学旅行は絶好調だった。東北を四泊くらいの旅行だったが、宿屋に着くとすぐ酒屋に走り、一升瓶を買いこんだ。夜同室の4−5人と飲むのである。日を追うごとに一升瓶の数は増えていった。朝空瓶を捨てるのに苦労した。
 「廣瀬君、もう覚えてしまったのはしょうがないけど、あまり広めないようにしてくれよ」
担任の教師に釘をさされた。反省したときは遅かった。のちに弁護士になったまじめな友人が、もう無いのかとクダを巻いていた。
 高校を卒業して、ますます酒を中心とした生活は常態化していった。
 そのころ、ロシアというもっとすざましい酒飲みの世界があるとは、まだ知らなかった。
 酒の話はまだまだ続く。

  
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