ハマっ子ノスタルジー
『屋久島』 (第23話) 広瀬裕敏 屋久島には2回行った。 一回目は1971年、二回目は1974年の夏である。 高校二年の夏、二週間かけて九州を一人旅した。国鉄の周遊券が7千円前後、ユースホステル一泊が7百円の時代である。 生来フケ顔のこともあって、ユースホステルでは大学生でとおした。同宿者のほとんどが大学生であり、高校生では話の輪に加えてくれないからである。 おかげで、本当の大学生たちに勧められるまま、煙草も覚えてしまった。鹿児島の城山あたりのユースホステルで、蚊があまりに多いので、皆で煙草を喫って蚊取り線香の替わりにすることになったのである。 鹿児島で台風をやり過ごして、屋久島行きの船に乗った。 二等客室の座敷に座っていると、隣の若者が参考書を広げていた。そしてしばらくして私に声をかけてきた。 「大学生ですか」 「ええまあ」 「東京ですか」 「ええまあ」 屋久島在住の高校3年生で、鹿児島で模擬試験の帰りらしい。 彼は私を大学生だと信じて疑わず、東京の大学のこと、受験勉強の心得などたずねてきた。私は最初は適当に答えていたが、やがて嘘に耐えられなくなり、何とかなりますよ、と一言いいおいて席を立った。台風の余波で船の揺れもひどく、一度甲板にでたかった。 甲板から客室に戻って別の席に着いた。船は鹿児島湾をでて、いよいよ揺れがひどく、不覚にもトイレに行く暇もなく吐いてしまった。 近くにいた若い女性が、大丈夫ですか、と声をかけ、見ず知らずの人間の吐しゃ物を片付け、長い間背中をさすってくれた。 私は苦しさに顔を上げることもできず、しかもなみだ目で、彼女の顔をみることもできなかった。屋久島の港に着いてようやく揺れが収まったとき、彼女は何も言わず席を立ち、私はお礼を言うこともできず取り残された。 屋久島は当時林業の島だった。縄文杉まで木材運搬用のトロッコに乗った。 海岸で流木を拾い、まだ珍しかった生のパイナップルと一緒にリュックに詰め込んだ。 屋久島のすばらしさを友人たちに宣伝してまわり、三年後友人二人と屋久島の最高峰(九州の最高峰でもある)宮之浦岳に登ることになった。 友人の一人が松山の大学生だったので、鹿児島の波止場で集合した。海抜ゼロメートルから二千メートルまで登るには当然山小屋で一泊必要だが、集合して初めて、誰も食料を用意して来なかったことが判明した。 やもえず、三年前と同じユースホステルに泊まって、早朝台所を勝手に使って握り飯を作った。(またコンビニなど無い時代である)物音に起きてきた支配人に見つかって、了解もなしに非常識だと、大目玉を食らった。 山小屋に泊まっていわくつきの握り飯を食べ、次の日の朝頂上にたった。ところが帰路は案の定土砂降りの雨にたたられた。一年のうち4百日雨が降るという島である。登山道は川になり、全身ずぶぬれでようやく海岸の集落に着いた。 あたりはもう暗闇で、件のユースホステル以外泊まるところも知らず、予約もないし、前日の一件で断られるかと思いつつ、玄関で宿泊を乞うた。支配人は私たちを一目見て、まず風呂に入れといった。 復路のフェリーに乗り込むと、デッキの一人の男性と岸壁の少年少女と無数のテープでつながっていた。大半の少女は泣いていた。屋久島を離任する学校の先生なのだろう。やがて蛍の光が流れ、銅鑼の音が響き、船が岸壁を離れた。 いつしか岸壁から万歳の声が沸き起こった。何度も続く万歳に合わせ、隣で友人の一人が、ニコニコ笑いながら万歳を繰り返していた。 「おまえ関係ないだろ。非常識だな」 自分の数々の非常識さをさしおいて、友人に向かってつぶやいた。 屋久島は美しい島である。そして今でも屋久島を思い出すと、恥しさに声をあげたくなる |
【掲載作品一覧】 |