ハマっ子ノスタルジー

       
『大洋ホエールズ』
(第25話)
                             広瀬裕敏
 
 
 中学生の終わりころホエールズファンになった。今の横浜ベイスターズである。
 小学生のころはまわりの子供と同じく巨人ファンだった。
 テレビ神奈川という地方局ができるまで、巨人戦以外のテレビ中継など無く、新聞で試合結果と、松原や高木由一の打率を毎日チェックするようになった。高木は、相模原市役所出身のドラフト外選手ながら、当時の中軸バッターだった。
 中学生になってまじめに勉強する習慣が無くなり、文学に耽溺した。団塊の世代の学園紛争をじっと見ていた。
 そしていつしか常勝巨人ではなく、万年Bクラスのホエールズを愛するようになっていた。
 川崎球場に行ったのは一度きりである。友人の家が、川崎球場と堀の内の間で開業医をやっており、彼の家に遊びに行ったついでに球場に行った。その狭さとトイレの汚さにビックリした。
 当時ホームラン三十本以上が五人並ぶという打のチームだった。平松の先発以外は、打った分だけ打たれていた。山下、長崎、高木、松原、シピン、田代,福嶋、中塚といったラインナップで、中でも田代は「鯵の開き」というあだ名で子供たちの人気だった。
 横浜にホーム球場が移って、球場の広さにホームランがでなくなり、チームカラーも変わった。スーパーカートリオの時代である。
 大学をでて「大洋漁業」に入社した。入社するまで、水産会社であることと、ホエールズの親会社であること以外何も知らなかった。
 入社して年に二回か三回、多分本部長の発案なのだろう、貿易本部全員で横浜スタジアムに応援に行くというイベントがあった。私にとっては大歓迎である。なにしろ家はスタジアムから早足で15分の距離である。さらに新入社員は、選手へのサシイレのために、会社の商品をかついで、会社を早退してベンチまで入れるという特
典もあった。
 数回はこうしたイベントが続いたが、本部長が巨人の王選手に下品な野次をとばしたことがオーナー社長の耳に入り、社長の逆鱗に触れて取りやめとなった。
 社会人になってすぐ、大学の友人に誘われて、一月一回の異業種交流会に参加した。自己紹介で、「大洋漁業」ですと告げると、見るからに業界人のS氏に大歓迎され、以後飲み仲間となった。
 なにしろS氏は、年間百試合以上ホエールズの試合を見ているというのである。名古屋や大阪や広島に当たり前のように行かなければ百試合にはならない。
 一度関西出身の東大出なのに、何でホエールズファンなのかと聞いたことがある。
彼は、私の偏見に満ちたぶしつけな質問に、笑って答えなかった。酒とホエールズを愛する、仙人みたいに温厚な人だった。
 最後に優勝したとき、私の希望で、S氏とS氏の知り合いの私設応援団のメンバーと飲む席を設けてもらった。ヤクルト何回戦の何回裏の誰それが誰それに投げた球種がどうだといったオソロシイ話題が続いた。
 S氏がなくなって、葬式の斎壇はダイアモンドの形に花が埋められ、受付の異業種交流会の窓口の隣には、私設応援団の窓口があった。
 私は会社でソ連の鯨肉の輸入を担当していた。そうした関係で、旧捕鯨部の方たちからかわいがっていただいた。捕鯨関連資材倉庫の閉鎖のため、倉庫の整理の手伝いに来てくれと頼まれた。横須賀の、ベイスターズ二軍練習場のすぐ脇に倉庫はあった。
 倉庫の整理に私が役に立つわけもなく、たくさんあった鯨の歯を数本もらって、ずっと若い選手の練習を見ていた。
 私自身もホエールズの親会社を離れて八年になる。ホエールズという名はなくなっても、ファンはファンである。

 
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