ハマっ子ノスタルジー

       
『劣等生』
(第30話)
                             広瀬裕敏
 
 中学一年生のときに劣等生になった。
 中高一貫のミッションスクールである。
 ドイツ人神父の校長は、規律を重んじ、大船駅から徒歩での通学を命じ、2時間目の授業のあとに上半身裸でラジオ体操を課した。さらに学校以外に塾に通うことを禁止し、学校の授業の予習復習のみを求めた。
 もとより塾に行かないことは大歓迎だが、その自宅での予習復習も放棄した。別に強い意志があったわけでも、ほかにやることがあったわけでもない。
 小学校のときの蓄積で、中学入学したてはなんとか中の上にいた成績は、中学三年生までせっせとさがり続け、ほぼ底辺の位置で安定した。
 三年生くらいから数学なるものがまったくわからなくなった。わが母校は60点以下の科目が三つ以上あると落第というシステムだった。成績表でおのおのの科目の下に赤い線がしかれ、それは「赤座布団」といわれた。数学は2科目に別れているものの、この赤座布団2枚だけで、かろうじて中学を卒業した。
 高校一年生のとき、担任教師に教員室に呼ばれ、50点から60点の間は1枚だが、50点以下だと2枚になるといわれた。
 そんな「笑点」みたいなルールは聞いてないぞ、と心の中で主張したが、冗談が通じる相手でもない。
 落第も覚悟した。そもそも上から落ちてきた連中とは中学一年のときから仲はよかった。
 三学期の終業式で渡された成績表は、数学の点数が二つともきれいに50点で、それなりの温情が示されていた。
 劣等生であることは、成績が悪いだけではバランスがよくない。
 中学二年くらいから映画や文学の面白さに触れ、それなりに忙しくなった。
 そして学校では教えない、社会の矛盾、不条理を知り、学生運動の波が引き潮になるときわずかにそれをかぶった。
 正直に言うが、ほかにやるべきことがあったから、劣等生になったわけではない。
 ともあれ意地でも学校の勉強はしなかった。ただ本をひたすら読んでいた。
 長いこと劣等生をやっていれば、学校でもそれなりの地位ができあがる。
 高校一年の体育祭の騎馬戦では自然に大将になった。当時から体重が重かった私が、大将馬の上に乗ったが、小回りがきかずにすぐつぶされて負けた。
 高二の体育祭では棒倒しの作戦をたてた。私は守備にまわり、ただ棒を支える役ではなく、前にフリーでかまえる遊撃手になった。集団でつこんでくる相手側に踏みつけられ、寝ているうちに棒は倒れた。完全な作戦負けだっ
た。
 高三のとき、立候補もしていないのに新設の(それまで田舎のミッションスクールにはなかったのだ)生徒会の委員長になった。
 決して人望があったわけではない。受験勉強に忙しい同級生たちは、そういったことは広瀬にやらしておけといった発想だったのだろう。
 体勢に群れず、人にこびない変わったヤツ、それが大方の評価だった。
 大学にはいったら進級を心配する苦労などなくなると思っていた。間違えて(あるいはほかに行くところもなく)外国語ロシア語学科なるところに入ってしまった。
 劣等生であることは、大学をかろうじて卒業するまで続いた。

   
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