ハマっ子ノスタルジー

       
『劣等生-オニのロシア語』
(第31話)
                             広瀬裕敏
 
 私立の外国語学部ロシア語学科にはいった。
 英語でもドイツ語でもなくロシア語を選択したのは、「ロシア語できます」と言えるのが変わっててカッコいいと思ったからである。
 ジャイアンツファンではなく、ホエールズファンであることと同じレベルである。
 受験勉強をしなかったと同時に、その大学の予備知識はまったく無く、ロシア語学科の前年度の偏差値もしらなかった。ロシア語学科の偏差値は他の外国語に比べて下位であった。ひとえにソ連の不人気さである。結果的にその選択で入学できた。
 その大学は早い時期に入試があり、合格を知って満足した。東大も三度も受けたが、数学が受験科目にある限り、受からないことはわかっていた。
 入学式のとき、校門にクラブの勧誘が列をなす。体育会とおぼしき先輩から「何学科?」と声をかけられ、ロシア語だと答えると、すぐに笑顔が消え勧誘をやめた。
 ロシア語学科の歓迎会で、一番年配の教授が私のそばに来て、
「広瀬君、君みたいのがロシア語来たのはマチガイだよ」
と、飄々とした口調で言った。
 冗談なのか何なのか意図がわからず、その場は苦笑を返しただけだった。
 後で聞くと、そのS教授は日本におけるロシア語の泰斗で、この大学のロシア語科を創った中心メンバーだった。
 この二つの事件の意味は、ロシア語の授業が始まって一週間でわかることになる。
 毎日ロシア語の基礎講座があり、見たこともないキリル文字は一日で覚えろと要求された。
 外国語の基礎を学ぶには、思考も応用も必要なく、ひたすら記憶し頭に詰め込む以外ないのである。
 もうすでに日々勉強する習慣をなくしている人間にとって、それは苦行以外なにものでもなかった。
 教室を見渡せばマジメそうな女子学生ばかりで、私だけが浮いていると思った。しかしどこにでも同類はいるものである。同い年のAk、K。ひとつ下のS。そして一年生の授業を再履修しているOなどである。
 ところで、ロシア語科は受験にハンデイをつけている、と思われる。公平に点数をつければ女子大になってしまうから、まず男にハンデイが与えられる。さらに現役にハンデイが加算される。しなわち浪人にハードルが高いわけである。
 その年はたまたま浪人向けの受験問題だったろう。その年の新入生は平均年齢が高く、しばらくたって史上一番デキが悪いと教授陣は嘆いた。次の年は年齢のハンデイは、棒高跳び並みのハードルになったと聞いた。
 ロシア語学科は「ロシア語1、2」を一般教養課程で履修するが、満足できるレベルにないと教授陣が判断すると、再度同じ課程を次の年履修することになる。そして同じ課程を二年連続落第すると退学を勧告される。
 入学式のとき、クラブ勧誘で避けられたのは、ロシア語が一番落第率が高く、入学者数に比べて卒業者が少ないからである。
 こうした事情がようやくわかりつつも、生活態度は変わるものではない。
 上から落ちてきたOに誘われるまま、Ak,Sと連れ立って授業をサボって麻雀にいそしむことになる。
 結果全員が「ロシア語1」を落とした。この4人だけでなく、男子学生の3分の2が落ちた。
 Oは二年目なので当然放校になった。すでに退学が確実になった前の年の暮れに受験勉強を始め、その年に早稲田に行った。今は地方新聞の幹部をやっている。
 二年目でAkも見切りをつけ、歯学部に入りなおした。地元でベテランの歯医者である。
 やはり同い年のKは、麻雀メンバーではないものの芝居に熱中し、二年生ですでに劇研の部長だった。当然われわれよりさらにロシア語の出席率が悪い。多分キリル文字も覚えるヒマもなく二年で退学になった。彼はその後田舎に戻って、通信教育で教員資格をとり、中学の先生もそろそろイタについてきた。
 こうした転進組を横目で見つつ、私はかろうじて残った。「ロシア語1」を二年で通過した後、次の「ロシア語2」を一年で通過しないと、四年で卒業できなくなる。(結果的にはできなかったのだが)
 なんとか「ロシア語2」を一年で通過できたのは、HとAbのおかげである。
 Hはやはり同い年だが、ロシア語の基礎を磐石にしたいということで、自らの意志で「ロシア語2」を再履修していた。宿題を写させてもらったのは言うにおよばない。彼は今母校に戻りロシア語学科長である。
 試験用の単語帳はAbが作ったものをコピーさせてもらった。彼の単語帳は、ページの上の方と、真ん中あたりと、下の方に同じ単語が記されている。その記された間隔毎、その単語を引いた事実を忘れてしまうのである。私より二つ年上なのだからムリはない。かれも教職をとり、故郷の有名私立校の教頭をやっている。
 それにしても試験の前には徹夜をした。なるだけ頭を揺らさないように学校へ来て、試験が終わったらきれいに忘れた。
 4年目5年目の話は紙面が尽きた。
 まさか卒業してからもロシア語を使うことになるとは、教授陣も私自身も思わなかった。
 S先生は、戦前満州のハルピン学院の教授で、シベリアに抑留され、十数年後最後の帰還船で帰られた。
 入学時S先生のおっしゃったのは、ロシアのおそろしさ、ロシアとつきあうことのおそろしさだったのかもしれない。
 でも、もう遅い。
 S先生は天寿をまっとうされた。劣等生たちも告別式に列席した。ロシア語関係者への香典返しは、なんと「中級ロシア語」のカセットとテキストだった。こうしてS先生の声はすぐに聴くことができる。聴くとすぐ、できそこないの劣等生の回答に苦笑いする先生の顔がすぐ目に浮かぶ。

    
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