ハマっ子ノスタルジー

   
       
『横浜の「三丁目の夕日」』
(第35話)
                             広瀬裕敏

  東京タワーができてしばらくして、横浜に「マリンタワー」ができた。
 なんでも開港百周年記念事業で、灯台の機能は付随的なものだったそうだが、それにしても世界最高の灯台であることに間違いない。
 わずか百数メートルだが、東京タワーの展望台が中間部にあるのに対し、マリンタワーは頂上部で、下を見渡せる高さはほぼ同じだと、東京都と張り合った。
 小学校一年か二年のとき、初めてマリンタワーに上った。学校の遠足だったかもしれない。
 眼下に山下公園と氷川丸が見下ろせ、大桟橋には大型客船が停泊していた。南の「港の見える丘公園」も見下ろすことができた。
 西側の自分の家を特定するのは難しかった。元町から延びる運河には船上生活者の船がたくさん見られた。その運河と、大岡川から分岐した掘割が合流するあたりが我が町である。
 港を振り返ると、横浜港を囲う突堤の先端に赤灯台が見える。その先が外国だった。幼い眼で港の全容を見て、そこから将来海外に雄飛する自分を想像していた。
 下界に下りて家に帰ると、まだ市電通り以外は舗装もされていなかった。
 その道を父のタバコを買いに歩いた。煙草屋へのおつかいが好きだった。父のタバコが新生からスリーエーに代わった頃である。
 市電通りを渡ったところにはうなぎ問屋があった。蒲焼を小売りしていたので、「ハマの日本橋」の料亭に混じって、母も鍋をもって買いに行った。
 私は記憶にないのだが、昔は実家の工場にも住み込みで、地方からでてきたばかりの少年が働いていたらしい。後年母が、東北からでてきた某君はサカナを骨だけ残してきれいに食べた、などと住み込みの青年たちを述懐していた。
 工場と料亭にはさまれた路地で、若い工員さんたちにキャッチボールをしてもらった。
 一度夜工場の事務所で、若い工員が父に自分の夢を語り、会社をやめる相談をしている場にいた。父は「がんばりなさい」と声をかけたと記憶している。父も埼玉の西部から横浜にでてきて祖父から会社を継いだ。私がちょっとでも社長の息子づらをすると、きつく叱った。
 工場の片隅にはには、すでに御用済みになった、氷で冷やす冷蔵庫が捨てられずに残っていた。
 大晦日の日だけは夜更かしが許された。
 紅白歌合戦が終わって、年が替わる午前零時に、港に停泊している船がいっせいに汽笛を鳴らす。寒いけれど午前零時になったら窓を開けて汽笛を聴いた。
 マリンタワーは物干し台の上からかろうじて見える距離だったが、汽笛は数十秒間鮮明に聴くことができた。
 今でもその習慣は続いている。横浜に住んでいることが実感できる瞬間である。
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