ハマっ子ノスタルジー

   
       
『横浜メリーさん伝説』
(第37話)
                             広瀬裕敏

 メリーさんは横浜では有名人だった。
 街娼の老婆である。
 既に中学生くらいからその存在を大人たちから聞いており、日中伊勢佐木町を歩くメリーさんを見かけるようにもなった。
 いつもおしろいを歌舞伎役者のように塗り、白かピンクのフリルのついた派手なロングドレスを着ていた。
 多分日曜日だったのだろう、周りの買い物客の好奇の眼のなかを泳ぐように、若干猫背で歩いていた。
 大学に入って、終電間近まで東京で飲むことが多くなった。
 東横線で桜木町にたどりついたときは、当然バスも終わっており、日常のことなのでタクシーに乗る金も無く、桜木町から自宅まで20分かけて歩いた。
 野毛から福富町、黄金町を通るコースもあるのだが、深夜にこのデイープなコースを通る度胸もなく、主に野毛から伊勢佐木町を突っ切って帰るコースが多かった。
 野毛は戦後焼け跡からの飲食店街、福富町はクラブやスナック、ソープがひしめく歓楽街である。黄金町にいたっては、「チョイの間」と称する怪しげな店が軒を連ねていた。
 それに比べ、伊勢佐木町の表通りは既に店も閉まっており、からまれる怖れも少なかったのである。
 その伊勢佐木町の街角で一度メリーさんに声をかけられた。
 メリーさんが立っているのは遠くからでもすぐわかった。そしてその頃はもう、街娼の何たるかも知識としてわかっていた。
 早足でメリーさんの脇を通り過ぎようとしたとき、「遊んでいかない」といったことをぼそぼそと小声で言われた。
 私は思わず眼を伏せて、「ごめんなさい」と言って通り過ぎた。
 メリーさんは私の後姿に、「ちゃんと眼を見て話しなさいよ」と言った。
 私は振り向くこともできず、屈辱感でいっぱいだった。それは彼女の捨てゼリフが理由ではなく、彼女が言うように、眼を見て話せなかった自分に対してだった。
 メリーさんと視線を合わせたら、上から見ていると思われないか、同情していると思われないか、そんな感情が錯綜して眼を伏せてしまったのである。
 昨年メリーさんのノンフィクション映画を観た。
 メリーさんと淡い交流のあった方たちのインタビューとメリーさんが居た横浜の風景を淡々とつづっていた。
 映画の結末は、白塗りをとった、上品な老婆の素顔のメリーさんだった。
 1995年まで横浜に居たメリーさんはふるさとの養老院で98歳の今もまだ健在だったのである。
 養老院を慰問した、自らは末期がんだというオカマのシャンソン歌手が「百歳までがんばろうね」とメリーさんに声をかけた。
 微笑むメリーさんのアップに不覚にも涙した。
 メリーさんの人生は映画でも暴かれることはなかった。戦後アメリカの将校と恋愛したのは確からしいが、関内のなじみのジャズバーの老ピアニストは、将校と結婚までしたのだと言っていた。
 伝説は伝説である。
 メリーさんが一時通った美容院の主人へのインタビューの中で、彼女はこういっていた。
「メリーさんはプライドの高い人で、施しは受けなかった。また誰にでも声をかけたわけではなく、条件が三つあった。
 ひとつはメガネをかけている男、インテリっぽいから。
 ふたつめは太っている男、金持ちっぽいから。
 三つめは黒い男、健康に問題なさそうだから。」
 私は、度胸を除いては、メリーさんのおメガネにかなったのである。

 
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