ハマっ子ノスタルジー

       
『祖父の日記』
(第40話)
                             広瀬裕敏
 
 実家のコーラ屋の事務所の壁にふたつの絵がかかっていた。
 ひとつは、昔のバンドホテルのあたりから大桟橋にむかって、横浜の海岸通を遠望した風景画である。
 大きなビルはニューグランドホテルしかない。氷川丸はまだ現役のはずで影も形もない。山下公園があるべき場所には、米軍のかまぼこ宿舎が等間隔で建っている。はるか大桟橋には今より多くの客船が停泊している。
 もうひとつの絵は、祖父の五十歳前後の肖像画である。
 蝶ネクタイに丸メガネは、贔屓目に見ずとも、横浜のダンデイズムが感じられる。
 昭和二十年代のふたつの絵は、横浜というキーワードで結ばれた不可分の一対であった。
 私に祖父の記憶はない。私が生まれて三ヶ月ほどで亡くなったそうである。したがって祖父の人生は、主に母の断片的な思い出話をつなぎ合わせたものである。
 祖父は大分県竹田のさらに阿蘇寄りの三重という集落で生まれた。
 日露戦争の軍神、広瀬武夫は同じ集落の出身だそうだが、どういう血縁かは聞き逃した。
 祖父の家系は広瀬家の本家だったそうだが、曽祖父の放蕩で没落し、同じ大分の臼杵に家族で出てきた。
 そこで祖父は生母を亡くし、さらに継母と合わず、小学校をでてすぐ商家の小僧にだされた。
 やがてどういうつてかは知らないが、横浜に出てきて、ラフィンという英国か米国の会社の日本支店に入った。丁稚奉公から始めて、営業マンになり、やがて独立して洋酒や飲料水の販売業を始めた。
 さらに洋酒につきものの炭酸水製造にも進出した。戦前、すでに元町と中華街の間に工場があったそうである。
 工場は横浜大空襲で灰燼に帰し、戦後は米軍にその土地を接収された。
 祖父はめげずに下町の花街のはずれに、新たに工場を建てた。
 その土地は戦前、祖父が「浜の日本橋」の芸者さんを引いて建てた妾宅だった。
 母はこの二号さんになついていた。母の戦時中の疎開先は、彼女のふるさとの信州だった。戦後すぐ彼女が肺病で亡くなるとき、彼女は母に預金通帳を渡した。彼女が戦前こつこつ貯めた預金は、戦後のハイパーインフレでスーツ一着分だったと、母は彼女を思い出しながら笑っていた。
 炭酸水屋はやがて清涼飲料水屋になった。ブランドネームはアローズコーラといった。なんでも創立時青山さんという方にお世話になり、その青山さんのAとヒロセのROSEをくっつけたそうである。ARISEの現在完了形を意図したものだろうか、今から思えば、事業拡大の意欲に燃える祖父の気概が感じられる。
 昭和四十年代も後半になると、中小の清涼飲料水業者は、大手に押されて廃業に追い込まれていくのだが、祖父はそれを見ることもなく、絶頂期に亡くなった。
 後年、確か高校生くらいのとき、押入れの中をあさっていて、祖父の日記を発見した。
 それは祖父の最晩年のもので、昭和三十年の三月ころ、多分容態が悪くなったのだろう、後に大きな余白を残して終わっていた。
 端正なペン字が、祖父の几帳面な性格を現していた。
 真っ先に私が生まれた日をめくった。文面は喜びにあふれていた。次男にも恵まれて、これで広瀬家も安泰だ、と書かれていた。
 そこからさかのぼる形でページをめくっていき、昭和二十何年かのある日で眼が止まった。
 曽祖父が亡くなった日だった。曽祖父は晩年祖父を頼って横浜に出てきて、黄金町あたりに住んでいたと聞いていた。
 そしてある一文にショックを受けた。
「やっと死んでくれた」
 祖父が、奉公に出された子供のときから晩年にいたるまで、曽祖父に苦しめられたことは母から聞いていた。
 ただ、誰にも見せることのない日記の中で、祖父の有体の感情を知ってショックを受けていた。
 祖父は女学校時代の母を連れて、竹田に一度戻った。広瀬家の菩提寺に先祖の永代供養を頼み、その後横浜の久保山に新たに墓を建てた。
 横浜の墓には、曽祖父、祖父母、祖父の二号さん、祖父の腹違いの妹、そして両親が眠っている。
 私も竹田に二回行った。二回目に行ったのは、広瀬武夫が死んだ歳と同じ36歳のときだった。広瀬神社をたずね、その日が広瀬武夫の没日、すなわち旅順封鎖の次の日であることを知った。

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