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ハマっ子ノスタルジー

       
       
『鯨飲馬食人生の馬食篇』
(第42話)
                             広瀬裕敏
 
 いじきたなさは治るものではない。今でも、定食のご飯大盛りが同じ値段なら、迷わず大盛りを選択する。
 高校に入った頃から、起きているときは常に腹をすかしていた。
 我が高校は原則弁当持参だった。唯一サッカー部の同期のIの実家のパン屋が、一個30円のパンを売店で売っていた。
 高校二年生くらいから早弁がはやりだした。最初はスリルを楽しんで、授業中に教科書を立てて食べていたが、そのうちスリルのスパイスも必要なくなり、二時間目が終わった10分の休み時間に、毎日当たり前のように母親の作った弁当を食べるようになった。
 ある日サッカー部のMが十円だか二十円を返さないから何とかフクシューしたいと山岳部のTに相談され、講堂の裏で休み時間にMの弁当を二人で食べ、きれいに弁当箱を洗ってカバンに戻しておいた。
 Mは昼休みに弁当箱の軽さにショックを受け、フタをあけてあまりにきれいなことにボー然としていた。Mは周辺聴きとり調査をしたらしく、三日目にばれた。
 高三のとき、ピザのシェーキーズが日本に上陸し、確か470円前後のバイキングで17枚食べた。
 高校を卒業して、中華街の海員閣に行き、あまりの行列の長さに入るのを断念して、向かいの順海閣に入り、大盛りチャーハン、大盛り焼きそばを発見した。カイバ桶でだされたような量だった。注文してから出てくるスピードがやたら早く、バケツに作りだめしているに違いないと噂した。
 一度陸上部のOと畏友Hが大盛りチャーハンの食べ比べをした。二人とも二杯完食したが、Hはあぶら汗を浮かべて一歩も動けずOの勝利に終わった。私は一人前だけオーダーし、どちらかが途中でギブアップしたら残りを食べようと待ち構えていた。
 大学はおろか、社会人になっても衰えることがなかった。
 出張も多かったのに、会社にいるときは、社員食堂で昼二回、さらに夕方ラーメンを食べることもあって、食券が足りなくなり、先輩の女性に売ってもらった。
 会社に入って初めての連休は、同期の住む千葉の社員寮で過ごした。
 麻雀三昧も目的のひとつだったが、寮の近くの寿司屋の食べ放題という情報に釣られた。
 寿司屋の主人は恐れをなし、何でも食べ放題という約束を反故にして、納豆巻きとかかっぱ巻きをまず大量に食べることを求めた。
 ロシアのプラント建設現場への出張は、合宿生活みたいなものである。最年少の私は仕事では役に立たないが、メーカーの方たちに可愛がられ、「カメちゃん」と呼ばれた。カメは「亀」ではなく「瓶」である。自炊の余り物を消化する私の胃袋を、そう表現された。
 高校を卒業するとき、体重は68キロだった。大学の卒業時80キロだった。その後順調に増え続け、社会人になって二十年目に百キロになった。
 自慢にもならない。

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