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ハマっ子ノスタルジー

       
       
歌うということ
(第43話)
                             広瀬裕敏
 
 遠い昔、実家の工場の従業員の慰労の宴会が年に一回あった。家の八畳六畳をぶちぬいて足りる人数だった。
 花街のはずれにあったため、芸者さんが二三人呼ばれていた。芸者さんの三味線の伴奏で、従業員の一人が「戦友」を歌っていた。何番も続く歌詞を忘れると誰かが助け舟をだす。
 昭和30年代前半のかすかな記憶である。
 小学生の頃はご多分に漏れずテレビ番組の主題歌を歌っていた。「少年探偵団の歌」「怪傑ハリマオ」などである。
 やがて歌謡曲にふれるようになった。小学3年生のとき担任の女性教師に「歌手は誰が好きか」と聞いたら「江利チエミかなあ」と答えられた。横浜の子供は、美空ひばりは誰でも知っていたが、江利チエミはまだ知らなかった。
 中学高校の音楽の時間は、美術に比べて好きなものではなかった。
 そもそも自分でも、歌がうまいとか、音楽の才能があるとか到底思えなかった。
 サッカー部の友人Kは、独唱の試験のとき、音楽教師は彼が歌うときトイレにたち、結果も赤点だったと嘆いていた。
 私も似たようなものだった。歌はレコードや深夜放送で聴くものだった。
 高校のとき北海道を旅行し、知床のユースホステルの夕食後の強制的ミーテイングで、森繁久弥の「知床旅情」を覚えさせられた。まだ加藤登紀子の歌でヒットする前のことである。
 山や海のキャンプファイヤーで合唱することはあった。またカトリックの教会では聖歌をぼそぼそ歌うのだが、それも合唱であり、一人で歌う機会はカラオケができるまで記憶に無い。
 会社に入って最初のメーデーの行進のあと、解散した新宿で「歌声酒場」に入った。ロシア民謡はすでにメジャーではなかった。
 大学時代の終わりころ、ようやくスナックにカラオケがでまわりだした。もっぱら聴くだけだった十数年前のグループサウンズのヒット曲を初めて歌いだした。
 社会人になってロシア人の接待の席などで、ある会社の上司はよくロシア民謡を歌った。「カチューシャ」とか「モスクワ郊外の夕べ」などである。長時間会話だけで間がもたないという事情もあったのだろうが、歌詞を覚えていることにまず感心した。そしてロシア人も全員ソラで歌えるということを発見した。
 ウクライナの田舎町の病院に入院したとき、あるとき担当の看護婦二人に呼び出された。また尻に注射でも打たれるのかと思ったら、日本の歌を歌えという。
 シャレた流行歌でソラで歌える歌などなかった。結局そのとき思いついたのは「荒城の月」だった。
 眼をつぶって真面目に一番だけ歌った。
 二人の看護婦に対する感謝の気持ちがあった。日本を代表する気持ちも少しだけあった。
 あまりに暗い曲調に二人は絶句していた。歌の感想は結局聞かずじまいだったが、そのあと一人の看護婦と親しくなった。
 その後もソラで歌える「持ち歌」を持ち合わせていない。
 
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