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ハマっ子ノスタルジー

       
       
ジャズの店
(第45話)
                             広瀬裕敏
 
 高校二年くらいでいきなりジャズが好きになった。
 多分友人の影響だろう。友人の大半は中学生のころロックにはまり、自然にジャズに流れていったが、私はいきなりジャズが好きになった。
 友達に連れられて、映画「真夏の夜のジャズ」を観た。雑誌「スウィングジャーナル」の読者欄に、名前は忘れたが有名なアメリカのジャズマンが、入れ歯が必要なのだが金がなくて困っているので皆でカンパしましょう、というのがあって感動した。
 野毛は、焼け跡からの飲み屋街であると同時に、ジャズ喫茶の街である。
 老舗「ダウンビート」に酒をしこたま飲んだあと入って、巨大なスピーカーの前の席で吐いた。
 しばらくダウンビートに立ち寄れず、もう一軒の老舗「ちぐさ」をひいきにした。
 横浜大空襲からレコードコレクションを死守した老人は、横浜の有名人の一人だった。コーヒー以外に水も出ず,私語も禁止の店だった。
 ちょうどコルトレーンが亡くなり、ソニーロリンズがタクシードライバーから復帰したころである。
 たまに新宿のライブハウス「ピットイン」にも足をのばした。当時午前、午後、夜と3ステージやっていた。
 高三の夏、午前中からピットインで涼んでいると、私服刑事に職務質問された。十七歳で予備校に通っていると答えると、高校受験か、日比谷でも受けるのかと聞かれた。
 夜のプロのステージは山下洋輔トリオを好んで聴いた。山下氏はピアノを肘で弾き、ドラムの森山氏はよくステイックを折っていた。最前列でステイックの破片をよけつつ、「前衛」モダンジャズに興奮していた。
 大学に入って四谷にも「イーグル」という名門があったが、高校から浪人時代に比べ、ジャズ喫茶に沈殿する時間が徐々に減っていった。つまり大音量のジャズに洗われながら思索にふける時間の減少を意味していた。
 社会にでたあと、友人に会いにニューヨークに行って、当時人気のあったジャズスポットに連れて行ってもらった。
 ステージのジャズマンが「親愛なる皆様」と客に話しかけた。ロシア語だった。さらに隣の席のグループもロシア語を話していた。
 グループの中の女性に聞いてみると、ステージのバンドマスターは彼女の父親で、元モスクワの大学教授。すでにアメリカに移民しているが、彼女はモスクワに住んでいて、初めてアメリカに来て父親と会った、とのことだった。
 確かゴルバチョフ書記長就任前の時代である。そんなに簡単に移民できるのかと聞いたところ、父親はジャズのために大学教授の職も捨てた、とだけ彼女は言った。
 モスクワにもジャズスポットがあると聞き、次にモスクワに出張したとき彼女に案内してもらった。
 「青い鳥」という店名だった。
 クレムリンの近くだが、繁華街からほど遠い、暗い街灯のビルの地下に忽然とあった。
 そこそこのレベルだが、ロシア人の愚直さが即興の楽しさを妨げている、そんな印象を彼女には話さなかった。
 二十年前くらいから、横浜の馬車道に馴染みのジャズクラブができた。老齢のピアニストと日替わりの女性歌手だけのクラブである。
 もうスローなスタンダードジャズが心地よい歳になった。
 経営者は同年代の浜っ子の女性で、演奏中に大声で横浜の昔話をしても、「ちぐさ」のように怒られることはない。
 ただ店の名前は「スピークロウ」という。
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