『自家用車』
(第47話)
ものごころついたときから、家にクルマがあった。
小さい町工場とはいえ、さすが社長の家である。
私が生まれた年になくなった祖父が、クルマの脇でポーズをとっている写真があったから、昭和20年代からクルマがあったのだろう。記憶に残っている最初のクルマは、「オースチン」とかいう外車だった。
寒い冬の朝、エンジンはなかなかかからなかった。幼稚園に遅れまいと、母がスピードをだすと、悪路にクルマがバウンドして頭をぶつけ、ブレーキのたびにシートから転げ落ちた。
とにかく道は悪かった。幹線の舗装路でも穴だらけで、雨の日は悪路にはまってよく動けなくなった。
自家用車は、工場裏のスペースで、飲料水配達用のトラックにはさまるように鎮座していた。
配達用のトラックは、瓶のケースを一段ごと積めるラック付きのもので、このトラックを導入したとき、横浜版の新聞記事になった。
小学校にあがるころから、クルマは「トヨペットコロナ」になった。
父は、家族サービスのつもりだろう、夏休みに一回、一泊か二泊でドライブ旅行に行った。
記憶に残っているのは、信州の美ヶ原、伊豆などである。
もう一箇所、小学校4年の夏に湯西川温泉に行った。
朝の四時に出発し、第二京浜で東京に向かった。日光街道にはいるあたりで、前を走る二台のクルマがケンカをしていた。
ミゼットか何かの三輪車で、走りながら棒のようなものでつつきあっているのである。停まってケンカすることもなく、走りながら近づいたり離れたりを繰り返していた。
道は悪いが、まだ交通量も少ない時代だった。
夏休みの宿題だったのか、このときの家族旅行を作文に書き、横浜市のコンクールに入選した。
タイトルと書き出しは今でも覚えている。内容自体は、ここを通ってあれを見たといった事実の羅列で、退屈なものだった。ミゼットのケンカのことは書かなかった。
タイトルは「500キロドライブ」、書き出しは「東京の朝日はまぶしかった」というものだった。子供らしさのない、いやらしい修辞である。
トヨペットコロナは代を重ねた。高校を卒業して免許を取って、家のクルマをよく使わせてもらった。
家の近くの、ライフルを持った門番のいる米軍キャンプを、根岸台のほうまでよく突っ切った。門番に笑顔であいさつすれば簡単に通してもらえた。
アメリカ人の家族が大きなワゴン車を走らせていた。
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