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ハマっ子ノスタルジー

       
       
『サッカー氷河期を生きる』
(第49話)

 1967年にサッカーを始めた。
 サッカー部に入った動機は既に書いた。
 入学当時、ボールの蹴り方もフォーメーションも何も知らなかった。日本語のサッカーの教本は、竹腰重丸とかいう蹴球協会幹部のものがある程度だった。
 我が母校は中高一貫の六年制なので、歴代高校二年生が中学生を教えた。学校は大船の山の上なので、グラウンドだけは広かった。そこで高校生の練習を見つつ、インサイドキックの蹴り方から始まった。
 66年のロンドンワールドカップの記録映画を一年遅れで観て、世界のトップレベルを始めて知った。決勝の疑惑のゴールでイングランドが優勝した大会である。
 当時は、東京12チャンネルの「三菱ダイアモンドサッカー」でイングランドリーグを観ることと、たまに来日する外国のクラブチームと全日本の試合が、世界とのかすかな接点であった。
 68年メキシコオリンピックで銅メダルをとり、一時的にサッカー人気は上がったが、その後実力、人気とも長期低迷期に入った。日本リーグの試合を観にいっても、観客席はガラガラで、向こう側のスタンドにいる友人と試合中でも話ができた。
 中学3年くらいから、中学チームをドイツ系ブラジル人の神父が、高校チームをバスク人の修道士がコーチするようになった。
 さらに遅れて、広島の姉妹校からもうひとり、サッカーフリークのスペイン人神父が転任してきた。先任の二人に口出しを断られたのだろう、別メニューでゴールキーパーの練習をしている私のコーチをしたがった。神父同士でも仲の良し悪しがあることを知り、かわいそうに思ってつきあってあげた。
 彼は、砂場にある鉄棒にぶらさがったまま、彼の投げたボールを蹴るように命令した。何のための練習だか理解に苦しんだ。
 ようやくゴールキーパーとして自信を持ち始めたころ、高校の現役のシーズンが終わった。 
 高校を卒業して同期でクラブチームを作り、神奈川県3部リーグで草サッカーを始めた。芝のグラウンドでプレーしたのは、県知事杯で準優勝したときの準決勝、決勝くらいのもので、ほとんどが平たいだけの土のグラウンドだった。
 そのチームで初めてマネージャーができた。共学の小学校の同級生を友人が連れてきたのである。
 彼女たちは、レモンのスライスや冷たいお茶を用意してくれ、ジャリのゴール前でセービングしてすりむいたら、消毒もしてくれた。
 草サッカーとはいえ、初めて選手としてあつかわれた気がした。
 大学でサッカー同好会に入ったのも、マネージャーの勧誘が決定打になった。すでに先行して高校の同級生がそのクラブに何人かいたが、4年生になってもマネージャーを続けていた先輩の口添えが効いた。
 夏の終わりはいつも秦野の合宿所で過ごした。たまたま入った秦野の街中の居酒屋にあったジュークボックスが、ほとんどテレサテンの曲で占められていた。選択の余地の無い居酒屋の主人の趣味に、テレサファンの一人として狂喜した。テレサテンはパスポート偽造で日本に来れない時期があったが、事件の前の彼女のキャリアの初期のころである。
 大学4年のとき、新しいマネージャーが二人入った。聞くところによると、一人は先輩に憧れて、というのが動機で、すぐやめたが、彼女に連れられてきたもう一人の娘は、結局卒業するまで続けた。先輩のマネージャーと同じく、責任感のあるマジメな娘だった。
 近年、「恋の川柳」を看板にしている女流川柳作家の出版記念パーテイーにでた。
その場で参加者は、「冬の恋」をテーマに川柳を作るように言われた。
 私は二作作り、ひとつは「マンモスの恋がどうした」という内容だった。もうひとつ、彼女に選ばれたのは次の詩である。
   白い息
   試合見つめる
   マネージャー
    不毛な氷河期にも花は咲く。

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