『横浜的不良』
(第50話)
「勉強しないとプータローになるよ。
勉強しないとニコヨンにしかなれないわよ。」
子供の頃、母が私に勉強を促すときの常套句である。
「ニコヨン」は日給二百四十円の日雇い労働者のことである。横浜では主に港湾労働者がイメージされた。私が生まれたころはもっと報酬は高かったろうが、戦後すぐに使われた蔑称がそのまま残っていた。
確かに元町のすぐ脇の寿町は、港を支える労働力の供給源だった。
「ニコヨン」が主に地方からでてきた出稼ぎ労働者であり、努力といったものとは別の社会構造に因るものであることは、高校生のとき判った。
問題は「プータロー」である。
若い頃から「優等生」を通してきた母にとって、実業に就かない人間は理解できない異人種だったのだろう、かなり否定的な使い方だったが、このいかにも軽薄な遊び人のイメージが横浜に似つかわしいことが、成長するにつれてわかってきた。
横浜に、極道予備軍といった硬派の不良もいるにはいたが、ちょっと困った道楽者のプータローこそ横浜的不良だった。
不良に憧れる歳になったころ、既に裕次郎のシャイな不良役の映画はなかった。「黒部の太陽」など、映画会社五社協定に単身戦って製作した数本の大作を経て、テレビの「太陽にほえろ」のボス役を見たときは、その貫禄の中に積年の疲れが見て取れた。
むしろ「太陽にほえろ」では松田優作のほうが横浜の不良のにおいがした。
永瀬正敏のテレビ番組「浜のマイク」は、福富町から先の大岡川沿いの横浜のデイープな繁華街が活躍の場だった。番組の中の事務所の隣の、場末の映画館には私もよく行った。高倉健の3本立てなどである。
もう映画館側もあきらめているのだろう、床はごみと吸殻が散乱し、スクリーンは紫煙でかすんでいた。
高校生になったころ、学園紛争も閉塞し、「シラケ世代」とか言われた。フーテンとかヒッピーとかいった連中が、ジーパンの裾をひきずって歩いていた。
我々は、完全な不良になることはできないまでも、謹直な学生に見られることは死ぬほど恥しいことだった。
まず酒とタバコを覚えた。
タバコは、高二のときの九州一周一人旅で大学生でとおしたので、ユースホステルで他の大学生に勧められるまま覚えてしまった。
高校の制服は、創立時は米軍の払い下げの軍服だったそうで、寸詰まりのジャンパー風の変わったデザインで、どうやってもくずして着こなしようがなかった。おかげで街中で他校の生徒にからまれたのは一回だけだった。
グループサウンズなみに長髪にしたかったが、高校二年までは教師を刺激する度胸も無く、高三くらいからようやく伸ばし始めた。
横浜の不良のデイープスポットは本牧だった。ゴールデンカップなど有名店に一回は行ったが、常連になるだけの財力もなかった。
浪人時代麻布高校のOB連中とよく遊んだ。一度霞町で見知らぬ若者が麻雀のメンバーにいたので、何年生だときくと、中学生ですと返ってきた。さすが麻布は都会の学校だと思った。
大学に入るころには、もう背伸びすることもなくなった。
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