放課後は
さくら野貿易
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ハマっ子ノスタルジー

       

       
みなと
(第53話)

 年が明ける午前零時に、横浜港に停泊している外航船が一斉に汽笛を鳴らす。
 カウントダウンが始まると窓を開け、寒気の中で汽笛の音を待つ。横浜に住んでいる特権である。
 今年は汽笛の数が少ないように感じた。大桟橋に停泊して年を越す客船が少なかったのだろうか。コンテナ輸送が多くなり、本牧のコンテナヤードが離れすぎているからかもしれない。

 「今日は赤ちゃん」という古い日活映画をテレビで観た。
 内容は、横浜港に停泊する貨物船の船員たちとそれを取り巻く女性の話である。航海士の和田浩二が船員向けホテルの娘の和泉雅子にプロポーズするプロットを主軸に、船員たちと彼らに各地から会いに来る奥さんや恋人の逸話が散りばめられている。
 吉永小百合が船長の娘役だった。EHエリックが唯一の外国人船員役で、会いに来る家族もいないので、クラブで飲んだくれていた。
 船員の身重の奥さんがホテルで出産したことで、梓みちよのヒット曲と結びつけたのだろうが、私にとっては、古い横浜のロケがふんだんに散りばめられていて興味深かった。和泉雅子が、船員たちとその家族の様々なトラブルを解決しようと、飛び回るのである。
 船が停泊しているのは、現在赤レンガ倉庫で観光地化した金港埠頭である。市電に乗って元町の洋品店を訪ね、古い京浜東北線の電車に桜木町から乗って川崎まで足をのばしていた。
 エンデイングは、和泉雅子がプロポーズを受け入れ、出港する船を見送るシーンである。無数の紙テープがたわわに延びるお決まりの風景である。

 横浜は海で働く男に寛容だった。
 昔、伊勢佐木町のはずれで何度も外国人船員の一団とでくわした。はずれの7丁目まで2キロ以上あるのだが、ひたすら陸を歩きたかったのだろう。一度道を尋ねられ、ここから先は商店街も終わりだと、中学生の英語で答え、一人の船員がギリシャのコインをくれた。
 コインを見つめて、いつか海外に雄飛する日を夢見た。

 水産会社に入って、何度か船を見送り、出迎え、何度か自ら船に乗った。
 南氷洋に向かう母船は、毎年秋に横須賀の長浦から出港した。
 ソ連捕鯨母船からの生の鯨肉買い付け事業なので、通訳が必要であり、希望すれば南氷洋に行ける可能性もあった。ロシア語に自信がないと先送りしているうちに、商業捕鯨がなくなり、見送られる立場にたつことは無くなった。
 一度だけ横浜から客船で渡航する機会があった。
 当時横浜とソ連のナホトカの間に定期航路があった。また当時のソ連極東で、外国人に開かれている都市はハバロフスクとナホトカしかなかった。通常ナホトカで仕事があるとき、新潟で一泊、飛行機でハバロフスクに着いて一泊、ナホトカ行きの夜行列車で一泊、計三泊必要だった。客船なら二泊三日で、タイミングが合えばむしろ早かったのである。
 大きな会議の代表団の末席に加えてもらい、私は欣喜雀躍した。大桟橋まで自宅から車で5分たらずなのである。もっとも末席としては、他の団員の世話もあり、出港時も入港時も感慨に浸る余裕も無かった。
 やはりナホトカ出張のとき、ロシア側との交渉が不調でビザ期限切れ寸前となり、ロシアの貨物船に飛び乗った経験がある。3日かかって神戸に着いた。
 朝神戸港沖に着いても、様々な手続きでなかなか着岸できなかった。早く陸を踏みたいと、税関への督促を通信士に依頼したりした。昼過ぎようやく岸壁に降りて、子供のころ横浜をうろつく船員の気持ちがわかった気になった。
 神戸に着いた当日は、熱海社員旅行の日であった。新幹線に乗って宴会に間に合った。

 ナホトカから駆けつけて、宴会好きもバレた。

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