『容貌コンプレックス』
(第56話)
昔から父親似といわれた。
特に最近法事などで父方の親戚に会うと、ますます似てきたといわれ、自分でも納得している。
子供のころはそういわれるのがいやだった。少し肥満体で、見るからにおじさん顔の父親とどこが似てるのだと思った。
ところが世間の眼は冷静なもので、容赦のない中学高校の同級生は、私に「カバ」とか「カバやん」というアダナをつけた。
不本意極まりなかったが、いちいち怒っていてもキリがないので、受け流してようやく高校生活を終えた。
要はすべてが大つくりなのである。頭も顔も大きく、眼も口も大きい。バランス悪いことこの上ない。
大学のあるサークルの新歓コンパで、冗談で「ショーケン」と呼んでくれと言ったら、殊勝にも呼び続けてくれる同級生がいて、シャレにならなかった。
後年ロシア商売を始めて、酷寒期には毛皮の帽子が必要と言われ、モスクワのデパートで探したが、合うサイズのものがひとつも無かった。やもえず伸縮性のあるウールの帽子でしばらく我慢した。
さらに後年、ロシアの毛皮屋とつきあって、世話になったお礼にと、ミンクの毛皮をプレゼントされた。
「考えられる一番大きなサイズで作りました」
宴会の席でそう言われた。「考えられる」の前に多分「人間として」というのがあるのだろうが、さすがに相手もそれは言わなかった。
欧米人との違いを実感させられた。
余談だが、ロンドンで靴を買おうとして足の幅を計られ、あなたに合う既成の靴はありません、と碧眼の英国人の若者に宣言された。
実際過度な甲高、幅広でサッカーシューズの靴紐の長さも足りなかった。
日本人は単一の血統ではなく、複数の場所から時代をへだてて渡来した人たちの混血といわれている。
仮に、最初に日本列島に来た古モンゴロイド、後から米を伝えた新モンゴロイド、最後に来た朝鮮渡来系、断続的に黒潮に乗ってきた南方系に分けると、私は古モンゴロイドと南方系の血が多いと思っている。
特に南方系の遺伝子が強いと確信している。
その結論に至った経験がふたつある。
一つ目は大学生のときのことである。大学のキャンパスのメインストリートを歩いていると、あなたの顔写真を撮らせてくれと声をかけられた。雑誌「太陽」の編集部で、「日本人の顔」という特集をやるという。
「あなたは典型的な南方系の顔ですから」
そう言われ私は快諾した。
結果はもっと典型的な西郷さんみたいな顔が掲載されており、私はボツだった。
二回目は就職して二三年目のことだろうか、同期で同じロシア部門のSとよく飲み歩いた時期だった。
新潟出身のSは目元涼やかで、私と対極をなす容貌だったが、その温厚さも大陸的で、先祖も明らかに違っていた。
彼は当時独身で大塚の独身寮に住んでいた。寮の先輩と西日暮里のフィリピンクラブに行ったら面白かったと私を誘った。まだフィリピンクラブができ始めのころである。
席に着くと一人のフィリピーナが二枚目のSをさしおいて、やたらと私に親切だった。理由を尋ねると、
「あなたは私の初恋の人にそっくりだから」
彼女ははにかみながらそう言った。
私は狂喜した。モテたこともさることながら、私の南方の出自を確信できたからである。
ただ私のこの確信は、それ以後あまり同意を得られていない。
何度も行ったロシアではあまりアジア系の区別はつかないようだし、自らも混血を重ねているから、血統に関するこだわりも少ない。ロシア人の数少ない美点である。
何より何度か行ったフィリピンで、尋ねる人すべてに、そんな顔のフィリピン人はいないと言われ、さびしい思いをしている。
私の確信は、多数派でいたくないという願望と、南方系の人の温かさへのあこがれに過ぎなかったのかもしれない。
今でも共通して言われるのは、覚えやすい顔だということである。
確かに、相手から前に会ったとあいさつされて困ることがよくある。
広瀬は待ち合わせのとき見つけやすいと、ロシア人にも言われた。
花見のとき、広瀬は準備しなくていいから、後から来る人の目印にしばらく立っていてくれと言われた。
この容貌と長いことつきあって、こうした周りの声で満足しなければならないのだろう。
|