『食の思い出』
(第58話)
晩年の母を見ていると、料理があまり好きではなかったようだ。
おいしいものに対する執着はむしろ父のほうにあって、たまに贈り物があると、嬉々として下処理に台所に立っていた。
食べ物に対する私の貪欲な血は、体型の遺伝子の前に、父から受け継いだようである。
それでも母は家業を手伝いつつ、毎日手料理をつくってくれた。
朝は和食だった。関西出身の祖母の影響か、納豆は無く、玉子焼きと海苔と佃煮の簡単なものだった。醤油をたくさん小皿にだして父にしかられた。
猫の朝飯も、鰹節をご飯に混ぜた質素なものだった。おかげで我が家の猫はスマートで、よくモテたようだった。
昼はパン食と決まっていた。バターをパンの余熱で溶かしながらうすく塗って食べていた。
中学生のとき、学校で外国人の神父の食べるサンドイッチの、厚いハムとバターの層を見て驚愕した。
夕飯は、和食、洋食、中華と均衡がとれていた。
コロッケやハンバーグの日は嬉しくて、台所を何度も覗きに行き、和食の、特に煮魚の日はがっかりした。
母の買い物についていって、近所の魚屋に寄っても、ハエが集まる裸電球の下の魚は見るからにまずそうだった。煮魚は、その鮮度の悪さに負けまいと、関東風に甘辛く濃い味に煮込まれた。
たまに父の要望で「スイトン」がでた。雑煮の餅の代わりに小麦粉の団子が入っていた。戦時中はもっとひどいもの食べていたんだから、と両親の懐古につき合わされた。
家業が忙しかったときだろうか、出前を頼むこともあった。
昼は五目そばが多かった。私はシンプルなラーメンのほうが好きだったが、野菜が不足するからと母に却下された。
夜の出前は主に、近くの郵船のコックあがりの洋食屋さんからとった。ハンバーグの上に載った目玉焼きが嬉しかった。
来客があったときは、近くの寿司屋の出前をご相伴した。その寿司屋は花街の中にあって料亭にもよく出前するから高級なんだと、母はしたり顔で話した。
買い食いは禁止されていた。一度近所の年長の男の子に屋台のお好み焼きをおごってもらった。キャベツと干しえびだけなのにおいしかった。持つところを新聞紙にくるんで渡された。
たまの家族の外食は、「浜の日本橋」の中の洋食屋以外は、中華街の華勝楼であったり、長者町のイタリアレストランであったりした。
父や兄と別に母に連れられていった、野毛の「キムラ」や港の近くの「カオリ」は今でも健在である。母が独身時代にも通ったそうだから、戦後すぐの開業だったのだろう。
父のはいっていたロータリークラブの毎年のクリスマスパーテイーも思い出に残っている。
今は無くなったバンドホテルのバイキングで満腹になったあと、エレベーターを動かして遊んでボーイに怒られた。
元町の私立の幼稚園の給食はおししかった。一度先生においしいと言ったら、給食のおばさんにお礼にに行きましょうと厨房まで連れて行かれた。まだ素直だった。
公立の小学校の給食は、長いパンと脱脂粉乳と鯨の竜田揚げの世代である。
小学校6年のとき、毎日曜日東京の塾に行った帰りの菊名駅の立ち食いそばが、初めて自分で払った外食である。
てんぷらそばが55円、かけそばが40円で、二杯食べて百円でおつりがきた。
中学高校の6年間給食は無く、母が弁当を作ってくれた。
高校になって早弁をするようになり、帰りに横浜駅西口の焼きそばや百円チャーハンを食べるようになった。とにかく味より量が必要だった。
やがて高校の終わりくらいから、元町、中華街や野毛を徘徊するようになる。
昭和30年から40年にかけての、横浜の下町の食の風景である。
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