『社会人一年生』
(第60話)
就職も苦労した。
大学4年のとき、二次募集でようやく内定した通信社も、単位不足で卒業できないことが判明して断念した。モスクワオリンピックに記者として行く夢も絶たれた。その年ソ連軍がアフガン侵攻し日本は参加ボイコットした。
5年目になって、履歴書を出したマスコミ以外の唯一の一般企業に、落穂拾いのように採ってもらった。
5年目になって初めて見た、大学の採用募集掲示板の左上の一番はじにその会社の募集があった。その会社はファンのプロ野球球団の親会社で、それ以外は何の知識も無かった。
どうせこの歳と成績ではムリだろうと、履歴書を郵送したまま何のアプローチもしなかったが、内定時期からかなり遅れて人事部から電話がかかってきた。人事副本部長が会うとおっしゃてるから来いとのことだった。
私は、フレッシュさに欠ける容貌と口調から面接は不得手だったが、結局その人事副本部長の一存で内定をもらった。入社年がその会社の創立百周年で、大量採用だったことも幸いした。
最終役員面接で、後に社長会長になる専務が、
「ロシア語というのは5年制かね」
と皮肉を言った。
「いいじゃないかなあ」
件の人事副本部長が助け舟をだしてくれた。この二人が実力者であることは入社後知った。
内定後だが筆記試験もあった。そのとき初めてもうひとりロシア要員が同期にいることを知った。ロシア要員にはロシア語の問題もあった。
露文和訳と和文露訳のふたつで、和訳のほうは政治記事なので何とか形はついたが、露訳のほうは全く手がでなかった。水産会社らしく捕鯨委員会の話なのだが、そもそも「くじら」をロシア語でなんと言うか知らなかった。
そのうち後ろから
「キミ、早くやらないと時間がないよ」
と声をかけられた。
声をかけたのは、ロシア貿易部隊のボスだった。半分白紙で出されて合格点つけるの苦労したよと、後年酒の肴にされた。
入社して数年後、今度は試験問題を私が作るようになった。個人的意向で、ロシア語の出来不出来は無視して、ソ連に関する常識問題を充実させた。15共和国を書けるだけ書けといった類である。
入社して配置が決まるまで研修合宿があった。新入社員まとめてバスで合宿所に運ばれるとき、湘南の海岸を通った。
サーフィンに興じる若者たちが見えたとき、同期の一人が、
「あの連中、将来のこと考えているのかな」
とやけに大きな声で言った。
その発言に嫌悪感に近い違和感を感じつつ黙っていた。多分他の同期の連中もそうだったのではないだろうか。脳天気な自由はもう我々に無いことを自覚させられていた。
合宿があけて次の月曜日、本社の会議室に新入社員は集められた。
各々辞令を渡されたのち、各々の部署から迎えが来るから待てといわれた。私の辞令には「貿易本部貿易一部貿易二課」とあった。
やがて温厚な笑顔のOs課長が迎えに来た。
「エレベーター混んでるだろうから階段で行きましょう」
と、5階上まで階段を駆け上がった。後について遅れまいとOs課長の脚を追ったが、すぐ彼は脚が悪いことが判った。
着いた先は十二三人で一杯になる小さい部屋だった。部屋に居た数人に紹介されながら、そこがロシア貿易と、水産物以外の貿易の合わさったセクションであることがわかった。他の貿易部は百人は入る大部屋が二つで、その貿易二課だけが個室だった。
個室からは皇居が一望できた。
入社して2週間程度はさすがに緊張していた。コピーとり、テレックスの平文直しから始まった。
直属の上司のOnさんから、何もできないのだからお茶汲みから経験しろと言われ、一日だけお茶を入れて配ったが、さすがに不評で一日で終わりになった。
Hさんから露文タイプを頼まれたが、タイプなど触ったことも無かった。一日がかりの上に、修正だらけで汚くなったレターをHさんは見て、そのあと頼まなくなった。
そのうち、貿易二課は変人の集まりと噂されているのが耳に入ってきた。そして個性的な上司先輩と接しているうち、それが嘘偽りないことが判ってきた。
やがて私も変人メンバーに加わることになり、いまだに当時のメンバーのほとんどの方たちと付き合いは続いている。
個室は便利で、夕方になると小さい会議机に集まって酒を飲む習慣があった。他部署からも酒好きが集まってきた。つまみも魚屋らしく豊富だった。宴会好きの私も新入社員ながら仲間に加えてもらった。
こうして会社と「変人クラブ」貿易二課の雰囲気にも慣れた。古い日本の会社の楽しいサラリーマン生活が待っていた。
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