放課後は
さくら野貿易
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ハマっ子ノスタルジー

       

       
 『社会人一年生(2)気楽な稼業』
 (第63話)

 猫をかぶった真面目な新入社員のフリも一ヶ月と続かなかった。
 ロシア貿易部隊のボスのMさんはまだ怖かったが、他の上司先輩たちのポジションも性格もほぼ把握し、少しずつ手足を伸ばすようになった。
 Mさん、Hさん、Oさんが安宅産業からの中途入社であることを知った。私の直属の上司になったOさんは確かに商社マンそのもので、隣の席で電話が鳴って0.5秒で受話器を取っていた。相手が驚くのを喜んでるのだと思った。
 Uさんは一番歳が近かったが、それでも入社は4年上で、早くもっと高度な仕事をしようと、私に自分の仕事を分け与えてくれた。
 隣には二期上のT嬢、前には嘱託のY氏が座っていた。T嬢に後年聞いた話では、Y氏は初日あまりに初々しさのない私を見て、関西弁で「あれはやめとき」と一言言ったそうである。
 以上がロシア部隊のすべてで、O課長始め他の課員の仕事の内容はよくわからなかった。中国のゴカイから中古船の輸出まで制約が無かったようである。
 仕事は別でも、終業のチャイムが鳴ると、皆嬉々として酒盛りを始めた。
 会社を警備員に追い出されると、銀座に連れて行かれた。Hさんは「今後のソ連貿易はいかにあるべきか」といった話題だけで2時近くまで粘り、我々と店の顰蹙を買っていた。
 ロシア部隊以外のグループで、酒宴を唯一嫌っていたのがGさんだった。
 ある日会社から東京駅までの帰路Gさんと一緒になった。
「広瀬君、休みの日は何やってるの」
「いやぁ、平日毎日飲んでるから休日は寝てますよ」
さしさわりの無い会話の中でGさんの次の発言にびっくりした。
「それは不幸だね。僕なんか家を造ったり、やることたくさんあるよ」
後でT嬢から詳しく聞いたが、Gさんはプラント輸出の梱包材など廃材まで集めて、自分で二軒も家を建てたとのことだった。
 不幸といわれても楽しい毎日だった。
 課の先輩連中と飲む以外に、同期の仲間ともよく飲むようになった。会社は大手町だが八重洲まで足をのばした。
 最初のゴールデンウイークは千葉の独身寮で、同期の連中と二泊三日麻雀三昧だった。

 ボスのMさんと他社のロシア貿易仲間と麻雀にいそしむようになったのは後年のことである。モスクワには麻雀卓は常備していたし、4人以上で出張時は麻雀牌と卓のマットを持ち歩いた。何度も神保町の質流れ屋に麻雀牌を買いに行った。
 同期の女の子たちともよく遊んだ。同期会も頻繁に開き、富士急ハイランドに遠足にも行った。
 会社のサッカー部にも入部し、日曜日は再びサッカーで埋まることになった。ゴールキーパーは重宝がられた。
 仕事上客との面談も接待も、上司先輩は何の役にもたたない私を可能な限り同席させてくれた。Oさんをさしおいて、新入社員っぽくない私に初対面の客が名刺をさしだすことを、Oさんは笑ってよくぼやいた。
 ソ連大使館の水産担当とは頻繁に会食していた。冬にはソ連大使館の数十人をスキーに連れて行くのが定例になっていた。私が入社して大使館とのサッカー交流試合も定例となった。一度も勝てなかった。
 こうして仕事で役にたってるとは思えなくとも、一年目から充実したサラリーマン生活だった。
 秋に新聞社の試験を受けてみようと思いたった。年齢制限上、A新聞以外の新聞社の最後の機会だったからである。
 休日に行われた筆記試験は通って面接の日に、「ちょっと外出してきます」とT嬢に言いおいて、歩いてM新聞に行った。皇居沿いに歩ける距離だった。
 面接官は「そのままサカナ屋に勤めたほうがいいと思うけど」と言った。筆記試験もさして出来は良くなかったのだろう、結果がなんとなくわかってとぼとぼと会社に戻ると、上司にすぐに声をかけられた。
「広瀬君、いいときに帰ってきた。研究所で南米向けのソーセージのサンプル作ってるから手伝いに行ってくれ」
 研究所は月島にあった。魚肉ソーセージの原料のスリミをこねながら、一生サカナ屋をやるのかな、と思った。
 落胆はすでに無かった。
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