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ハマっ子ノスタルジー

       

       
 『通学路』
 (第64話)

 歩くのは不得意である。
 若いころから目的も無しに走ったり歩いたりするのは好きではなかったから、後年太ったのかもしれない。また体が重くなってからはさらに歩くのが億劫になる。ニワトリと卵の関係である。
 そもそも野原はおろか、公園さえ近くにない市街地に生まれ、母親は交通事故を心配して私が外で遊ぶのさえいやがった。
 事実、磯子の小学校に通うため、朝道の真ん中を走っている市電に飛び乗ろうとして、ほんの接触事故だったが、小型トラックにはねられた。母が若い運転手をなじり、運転手は恐縮しているのを、私は泣きもせず眺めていた。
 そんなこともあって母に反論もできず、家の廊下や座敷を走り回っていた。物心ついたときすでに家に居た猫よりも行動範囲が狭かった。
 小学校に入学したてのころ、雨の朝市電が超満員で、小学校の前の停留所で降りられず、ようやく次の「森」という停留所で降りてひと駅分歩いて戻ったことがある。傘をさして水溜りを避けながら兄の背を追った。見知らぬ道が不安で、たったひと駅の距離がひどく長く感じた。
 小学校2年の夏に、磯子の海の埋め立てに追われるように、学校が汐見台の方に移転した。越境通学組は、間門の交差点に集合して歩いて通うことになった。
 美空ひばりの旧宅の前を通り、プリンスホテルの前を右に曲がる道順である。この道は16号線の旧道にあたるのだが、交通量が多いので、4年生くらいから新たに小学校の裏に出る道が作られ、再度通学路が替わった。
 その小道は、後年スチュワーデスになった可愛い女の子の家の前を通る道だった。小学3年のとき、担任教師の配慮からか席が隣だった。彼女は席が決まった新学期の初日、「まあ広瀬君でもいいか」と言った。私は有頂天だった。彼女が好きだった時期と、彼女が私に関心を示した時期が大きくずれていた。幼いころから恋愛は不調だった。
 間門の停留所の近くに友人の家があり、集団下校解散後、牛乳ビンのフタでめんこ遊びをした。集めたフタの数はそれなりに誇れることだった。
 小学校6年のとき毎日曜日の進学塾通いが新たに加わった。
 進学塾は自前のビルがあるわけでなく、会場は3箇所に別れていた。確か、御茶ノ水の予備校のビル、東大の駒場キャンパス、原宿の社会事業大学だった。
 駒場には渋谷から玉電で通った。一度だけ駒場から友人と歩いて渋谷まで行ったが、別に町並みの風景をめでる歳でもなく、途中から駆け出して競争になった。
 原宿の会場が仲間で一番好評だった。明治通り沿いの会場から駅までの帰路、東郷神社で遊べるからである。
 中学に入って、大船駅から大船観音を横目でみつつ、旧玉縄城めでの坂道が通学路になった。
 歩いて20分、遅刻を恐れて駆け上がるのに10分、ひどく退屈な道だった。
 水分補給を禁止された時代の部活の帰り、その道にたった一軒の小さい食料品店で、チェリオの大瓶を買い渇きを癒した。
 その中学には、冬に「歩く大会」というイベントがあった。久里浜から三浦半島を一周して逗子まで40キロを歩いた。
 やがて体力にも自信がつき、社会的好奇心も芽生えてきて、徐々に通学路以外の町並みを開拓するようになる。
 
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