放課後は
さくら野貿易
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ハマっ子ノスタルジー

       

       
 『渋谷にて』
 (第66話)

 押入れをあさっていたとき、20歳のときのガリ版の同人誌を見つけた。
 ここに載せるのは私が書いた短編小説である。
 これを発表したとき女友達みなから、広瀬は女を知らない、といわれた。
 今読み直してみると、彼女たちの批評は実に的を射ている。赤面するに充分な駄作だが、当時の甘い学生の雰囲気が良く出ていると思い、何の修正も加えず掲載することにした。
 1974年の話である。

 山手線が渋谷駅にすべりこむ時、駅前の交差点が眼下に見られる。スクランブルなので、人がウンカのごとく、道を占領するときがある。夕暮れの、帰宅を急ぐその流れを見ていると、ふとほほえみたくなることがある。なぜといわれても困るのだが、強いて理屈をつけるなら、その極めて非人間的な都会の断面が、無表情の集合体が、逆に人間臭くみえるからだろうか。無表情な能面でも、その落とす影に、個々の歴史を背負った真実と呼べるものを垣間見ることができる。そう僕は確信している。そして、決して追憶と呼べるほど高級でないにしろ、誰にも、妙に心に残るこうした体験がありえるはずだ。
 こういう感傷的な書き出しは、実に気恥ずかしいものだ。くどくどと書き連ねて本筋に入らないのも、実はこれから話す思い出が、全く僕個人の、つまらぬ感傷にすぎないのではないかという危惧があるからである。しかしこうしていても始まらぬ。勇気を出して語り始めることにしよう。
 
 「広瀬クン。私、結婚したのよ。初婚よう。三十過ぎてようやく。ーーへへへ」
 Sというジャズ喫茶に入るなり、いきなりYさんが言った。
「ほんとに。へえ。そりゃ何かお祝いしなくちゃいけないな」
「いいわよ。この歳になっていまさらお祝いも恥しいから。コーヒーでいい?」

 「二浪目の年、僕は先年に続いて御茶ノ水で暮らしていた。予備校には一応籍を置いていたが、学校に寄り付きもせず、もっぱら雀荘通いをしていた。生来の怠惰がそうさせてたのだろうが、その頃の僕には、退廃こそ美徳という、価値倒錯の感覚があったのも事実である。同種の仲間には困らなかった。

 家を出るときのウツウツとした気分も、彼女の明るい顔を見て、とたんに愉快になった。彼女はジャズと映画を愛する陽気な人である。それには、一人身の寂しさを隠す、から陽気の部分は少しはあったのかも知れぬ。しかしともかく、その明るさを持続せしめるものは、彼女の資質と努力である。いわば彼女は、毎日の生活を楽しむことに、決して妥協せぬ強さを持っていた。
 小一時間程たって席をたった。
「また来てね。ウオルドロンの「フリーアトラスト」買ったから」
「ああまた来るよ。Kに結婚したこと知らせに行くから」
「いいわよ、わざわざ」
彼女は可愛く照れた。
 店を出て、地下鉄の駅に向かった。Kは渋谷のMでバイトをしている。彼もYさんとは違った意味で強さを持っている。それは孤独を愛する強さであり、また現実を直視する強靭さと言ってもよい。いわゆるエリートコースをあっさり放棄し、好きなジャズの世界につかりこんで、決して周りの動向に左右されることはなかった。人生を泳ぐに器用といえぬまでも、そのリアリズムには信念があった。彼には一種の劣等感をぬぐいきれなかった。
 Mの重いドアを開けると、そこにセシルテイラーノピアノがあった。泳ぐような感じで席を探し、ソファーにダウンした。セシルテイラーを聴くといつもこうだ。その激しい音のつぶては、いわば現在進行形の怒りを感じる。この店の雰囲気はSとは明らかに違う。ここの客はニヒリステイックな姿勢と、デイレッタンテイズムこそ至高と考えるプチブルの群れであった。僕はそういった連中に嫌悪を感じながらも、一方で自分もそうしたポーズをとっていることがよくわかる。
 Kが水をもってきた。
「よう、もう麻雀終わったのか」
「人を雀鬼みたいに言うなよ。たまにはやらないことだってあるさ。それよりおまえ、Sのママ、結婚したってよ」
「本当かよ。冗談だろ」
「それが本当らしいぜ。今本人からきいたんだから」
「へえ、それはそれは」
茶化したような口ぶりにも、彼はYさんの結婚を喜んでいるのがわかる。僕は、彼のリアリズムは、決して冷たさだけではないことを知っている。
 彼と話しながら、僕は、前にかなりの美人が座っているのに気がついた。ふとまわりを見ると、他の客が僕を非難がましく見ている。それはどうも私語のためではなく、前の人が店の客全員の注目の的であり、その前にずうずうしく座ったことによるもののようだった。改めて観察すると確かに、自慰的なうす汚さをもつジャズ喫茶の中で、彼女は異彩を放っていた。もちろんダンモ屋は男ばかりでなく、煙草を燻らしつんとすました倉橋由美子タイプがいることはいるが、彼女の煙草は、自意識過剰のぎすぎすしたところがなく、流れるような自然さがあった。
 僕は実に一時間余り彼女を見ていたが、その間一度も彼女は顔をあげなかった。それはジャズを聴いているようでもあり、物思いにふけっているようでもあった。眉間にしわをよせることもなく、その内面の世界は奔放に飛翔しているかのようだった。泰然自若とした生き様は、日ごろ僕たちが憧れ、それが果たせぬ自分の俗性を深く嫌悪しているだけに、彼女のポーズ、そして多分それに連なる彼女の全生活に、羨望を感じざるえなかった。そしてそれ故取り付く島の無いことに失望して、やもえず文庫本を開けて字面をなぞった。
 さらに三十分ほどして彼女は席を立った。僕は故意に視線をあげなかった。Kがテーブルを片付けに来て、初めて彼女が座っていたあたりを眺めたが、そこにライターが落ちてるのに気がついた。Kも気がついたようで、
「ああ、あの人忘れていったみたいだな。追いかけて間に合うかな」
僕はKを押しとどめて言った。
「いいよ、俺もうでるからさ。追っかけてって渡してきてやるよ」
強引にデユポンの高そうなライターを奪い取って席を立った。
「おい、カネおいてけ、カネ」
 そそくさとカネを払って店を出た。店の前にはもう見当たらず、予想をつけて僕は駅のほうに走った。駅に続く歩道橋の上で、運良く彼女に追いついた。
「あのう、ちょっと」
ふりむいた顔は決していぶかしげな表情ではなく、口許には微笑があった。
「なんでしょうか」
「店に忘れてったでしょう、ライター」
「あら、ほんと。そうもありがとう、わざわざ」
その口に白い歯がこぼれた。一瞬沈黙が流れ、僕はぶざまに立ちすくんでいた。
 「本当にどうもありがとう」
彼女が動きかけたので、僕はあわてて言ってしまった。
「あのうーー。あのよかったらコーヒーでも飲みませんか」
 しまったと思った。お茶に誘うなどという、まるで絵にならぬ俗なシーンは耐えられないし、だいいち僕たちはさっきコーヒーを飲んできたばかりなのだ。所在のなさに、早く彼女が断ってくれることを願った。ところがこうした僕の動揺を察してか、彼女は明るく笑って言った。
「そうねえ、お礼にご馳走しようかしら」
思わぬ成り行きに嘆息しつつ、僕は彼女に従った。
 僕たちはうまいが高いコーヒーを出すので有名な店に入った。歩道に張り出したテラスに彼女は座り、僕は外に向かう形で席に着いた。
 「学生さん?」
「いえ浪人です」
浪人というと妙な遠慮をされるので、僕は日ごろから学生で通していたが、先ほどのぶざまさに、なんらとりつくろう気がなくなったのだ。
「そう大変ねえ」
「いえ全然。試験が年一回だからかえって楽ですよ」
彼女はケラケラと笑って言った。
「そうね、ずいぶん麻雀やってるみたいだし」
「いや、あれはですね」
僕は焦った。彼女が思いかけず、Kとの会話を聞いているのに驚いた。
「いいのよ、私も同類なんだから」
彼女はいたずらっぽく笑った。自嘲をこめた、吐き捨てるような言い方だった。
 彼女は次の瞬間、Mで見せたあの放心した表情に変わった。午後の陽はかなり長くなり、広い窓から店の中にも延びていた。僕が取り残されたように座っていると突然彼女が口を切った。
 「アートテイタム、どう思う?」
何が言いたいのか判らぬまま、僕は答えた。
「いいですね、彼。バカテクだというので有名だけど、それだけじゃないと思いますよ」

「そうねー。私ね、時々彼が憎らしくなることあるのよ」
「えっ」
「不遇すぎるじゃない、あまりに。彼、クラシックやりたかったのに、黒人だからできなくて、やもえずジャズに入ったんでしょ。それなのにあの整いすぎたピアノはどう。自分の不遇に悲鳴をあげたっていいじゃない。今だったらまだいいのに。生きる時代を間違えた不遇さも憎いわ。
 ロリンズなんて判るの。彼は人をハッピーにさせて、それでエンターテイメントに自信をなくすと、ふっと居なくなっちゃう。その奔放さが実に羨ましい。でも日常に毒されて、もはや舞台から降りられない人間は、一生ぶざまに演じる以外ないじゃない。
 ゴッホみたいに、気が狂うことによって幕を下ろす純粋さがあれば、あるいはそう、ランボーみたいにすべてが捨てられる天才性があればそれはいいわよ。でも凡庸な普通の人間は、過去を引きずって茶番を演ずる以外ない。
 そう思わなくて?」
息も切らず彼女はそこまで言った。突然の真面目な話に驚いたし、全く見ず知らずの僕にこんな話をする彼女の意図もわからなかった。
 「そうですねーー。そう思います」
僕はお茶を濁しておいて、彼女の顔を観察した。言わんとすることはわかるけど、それを言わしめる彼女の根というものは、その整った容貌から汲み取ることはできなかった。彼女を興奮させたのは、セシルテイラーなのか、それともこの明るすぎる夕日なのか。様々に思いをめぐらして彼女を見ていた。折からの陽光が彼女の線を和らげ、なおいっそうまぶしく見えた。
 彼女は、映画、小説、麻雀までどれも造詣が深かった。僕はそれに感心し、さっきの話と合わせて、彼女の中に大きく虚像を膨らませていった。
 会話が一段落したのを機に、僕は彼女自身のことを訊こうと思った。
「あの、今何やってらっしゃるんですか」
「職業のこと?そう、何に見える?」
「最初モデルかと思ったけど、もっと知的な職業でしょう」
彼女は大きく口を開けて笑った。
「それじゃ全然はずれね。私の職業はね、そうーー」
彼女は言葉を切った。視線を落とし、長いーそう僕には感じられたー沈黙ののち、顔をあげて僕を見て軽く微笑んで、そして声を出さずに口で形を作った。
 「え?ア、イ、ウ、ン?」
アイウン、その母音に様々な子音をあててある言葉で止まった。戦慄のようなものが背中を走った。
「バイシュン」--まさか。僕は彼女の顔を見た。彼女は明るく笑い、先生が生徒に教えるような口調で言った。
「そう、売春。私ね、二号さんなの。売春とおんなじよね」
 急に暗くなり、初めて彼女の眼の下に隈が見えた。うつむき加減の彼女の顔に疲れの色があるのがわかる。決して、今まで築き上げてきた虚像が、音をたてて崩れたわけではない。しかし今まで益もない話題に浮かれていた心に、「現実」という言葉の重みがはっきり感じられたのは事実である。
 それから彼女と別れた。どこをどう歩いたのか、井の頭線のガードに近い、飲み屋街の雑踏の中にいた。もうどっぷり日が暮れて、赤提灯の光がただれて見えた。結局彼女の名前や住所は知らないままだった。最後に彼女はこう言った。
「毛沢東の言葉にね、人が何か成すには若さと貧しさと、そして無名とがなければならない、というのがあるの。私はそのうち二つ、もう失くしてしまったけど」
 しかし考えてみれば当たり前の話である。誰も生きるためには食わねばならないし、その現実から逃れることはできない。僕にだって年が明ければ、紙切れ一枚の現実が待っているのだ。
 十一月も末の夜ははなはだ寒かった。彼女の「引きずらねばならぬ過去」が何なのか、それは想像に頼るほかない。五木の小説的に、彼女の学生生活に70年当時の挫折を設定することも可能であろう。そかしそれはどうでもよいことだ。彼女は美しく、インテリの哀しさをもってなお美しかった。名前を聞かなかったことをちょっぴり悔やんだ。
 渋谷駅前に出た。コートの襟をたてたサラリーマンにはさまれて信号を待つ。信号が青に代わって、人々は争うように歩き始めた。 
 
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