『横浜の小学校の遠足』
(第67話)
本牧三渓園への遠足は鮮明に覚えている。
貸切の路面電車で行った。幼児の乗り降りの長い時間、追い越すことのできない後続の電車は、せかすこともなく待っていた。のどかな時代だった。
三渓園は、原三渓という横浜の生糸商が、金にまかせて古い家屋仏閣を日本中から移築し、自分の趣味で一から庭園を築いたものである。
幼児には猫に小判で、単に大きな池のある退屈な場所だった。
最近観光で来たロシア人を連れて40数年ぶりに再訪した。三渓は、明治期に朽ちようとしていた文化財を集め、さらに死蔵することなく後世に残したのだった。横浜の浅い歴史と寄せ集めを恥じた自分を恥じた。
記憶に残る遠足を列挙する。
マリンタワーから山下公園、氷川丸。
氷川丸は、サンフランシスコあるいはシアトル航路の客船から戦時徴用され、撃沈することなく生き残り、さらに移民船として働いたあと、ようやく山下公園に終焉の地を得た。唯一に近い生き残りの客船ということで、当時の大人たちの説明には、この船に対する尊崇がこめられていた。
大桟橋からシルクセンター、開港記念館。
シルクセンターは、絹製品の輸出で基礎を築いた横浜の貿易記念館のようなものである。パスポートセンターが中にあるので、今でも数年に一度通っている。
総持寺。鶴見にある曹洞宗の大本山である。
後年、開山何百周年かの年、境内の屋台のそば屋でバイトをした。市販のそばを私が水道水でほぐすだけの、いいかげんなもりそばを、全国から集まられたご老人たちに供した。
こどもの国。
1965年青葉区(当時港北区)にできた。市内ではあるが、とんでもない田舎で、横浜線の古い車両に揺られて行った。
園内に大きな池といくつかのいかだがあった。いかだは自分たちで竹棒を使って動かすことができた。女子高生数人が乗って岸壁に近づいてくるいかだに、悪童たちは待ちきれず飛び乗って、一人の女子高生を池に落としてしまった。女子高生をあわてて引き上げると、彼女は「こら、謝れ」と一言私たちに言っただけで、濡れたまま帰っていった。彼女も悪童相手では仕方ないと思ったのだろう。
野毛山動物園。
金沢文庫。
横須賀三笠公園から観音崎。
横浜南部の小学校から横須賀まで、京浜急行で近いのである。
中学校まで遠足があった。
中学校は大船にあったので、遠足地は大船フラワーセンター、建長寺から鶴岡八幡宮といったところであった。
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