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ハマっ子ノスタルジー

       

       
 『社会人一年生(3)新入社員の仕事』
 (第68話)

 何の技能も持たない新入社員に、さぞかし上司先輩連中も困ったことだろう。
 当時その会社は、M商事というロシア専門商社と組んでやっていた。
 ファックスもまだ無い時代、M商事のモスクワ事務所からM商事の本社に入ったテレックスを、電話で読んでもらい、平分にしてコピー回覧するというのが朝一番の仕事だった。長文だとわざわざM商事本社のある溜池までテレックスを取りにいった。
 M商事の若手女子社員と毎日のラブコールだった。
 打電の方はM商事のモスクワ事務所に直接できた。上司先輩の文章を会社規格のテレックス用紙に打ち込み、テレックス室に持ち込むのである。
 こうした一連の作業で、誰が何をやっているのか多少は理解できるようになった。
 先輩上司の出張準備も時間の食われる仕事だった。
 ソ連の公団に設備機械を売り込むための書類は、日本語でまとめられた後、翻訳会社に出され、さらにできあがった提案書を10部以上コピーした。カタログをつけてファイリングすると、1セット10センチ以上の厚さになった。
 書類をダンボール箱に詰め、さらにカップラーメンなどの食料品とみやげを加えると、一回の出張で荷物はダンボール箱10個以上になった。
 当時モスクワでも簡単に食べられる食堂とて無く、レストランに一度入ると2時間は覚悟しなければならなかった。食料品は必需品だった。
 ダンボール箱を持ち運びしやすいように、ちゃんとバンデイングしろと上司に言われ、後年後輩に私もしっかり指導した。
 このダンボール箱を運ぶ出張は、私が前線部隊に加わるようになって、ソ連が崩壊してプラント商売がなくなるまで続くことになる。最高で、レニングラード見本市の帰り、百個のダンボール箱を二人で運んだ。
 上司先輩連中は私を大事にあつかってくれた。
 社内関係先への紹介から始まって、得意先企業、官公庁、ソ連大使館、通商代表部など、連れまわしてくれた。
 さらに、まだ経費削減がうるさくない時代だったのだろう、接待の席にもほとんど同席させてもらった。後年京都の祇園にも2回連れて行ってもらい、野球拳をやってパンツ一枚になった。
 それにしても、当時席の温まるヒマもなく、飛びまわっていた気がする。
 荷物運びは一手に引き受けていた。
 月島や晴海あたりの冷蔵庫からサンプルやソ連への土産のマグロを取りにいくとき、役員専用車があいていると使わせてもらった。遠慮が無かった。
 秋から鯨肉輸入のドキュメントワークをまかされるようになって、輸入許可を通産省で取得するのが最初の仕事だった。書類を提出に行っては、フォームの不備やタイプミスを指摘され、霞ヶ関と本社の和文タイプ室を3度往復した。
 席が温まらないのもいろいろ訳がある。
 最初の出張は、日帰りだったが、5月に一人で鱒の養殖場を見学して来い、というものだった。コマ使いだけではかわいそうだという配慮だったのだろう。
 養殖場は富士五湖の近くにあり、ついでにロシア語学科の同級生で、歯学部に転進したAの富士宮の実家に行った。彼の父親に連れてられていったソバがうまかった。
 考えてみれば一年目からかなり好きにさせてもらった
 
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