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ハマっ子ノスタルジー

       

       
 『お巡りさん』
 (第69話)

 むかし制服を着ている人は偉かった。
 「エラい」という表現は、今でこそ揶揄をこめたときしか使われなくなったが、昔は制服を着ている人は、少なくともその制服に見合う人格と誇りを持っていると誰もが確信していた。
 その最たる存在が「お巡りさん」だった。
 子供のころ街中にお巡りさんはたくさん居た。学校帰りに道端でメンコに興じていると、お巡りさんが覗き込んで、そろそろ帰れと口を出した。うとましかったがそれは子供にとって不可解なことではなかった。
 夕方の交番に立つお巡りさんは街中の自然な風景だった。
 中学高校になって、制服を着ている人間に対する敬愛が少し恥しく思えてきたのは、多分少し上の世代の学園紛争によるものだろう。「権威」とか「権力」といった言葉にひどく敏感な時代と年齢だった。
 高校一年生のとき、夜半伊勢佐木町のはずれでお巡りさんに職務質問された。
 どこへ何しに行くのかという尋問のあと、カバンの中もチェックされた。
 ちょうど泉谷しげるの「黒いカバン」というお巡りさんをおちょくった歌がラジオでよく流れていたころで、泉谷と同じ経験をしたとすぐに学校で吹聴した。
 高二の夏東京の予備校に通っていて、合間に新宿のピットインに涼みに行っていたとき、突然二人連れの中年の男が入ってきた。
 ピットインは当時ジャズスポットの聖地で、午前午後夜と三回ライブをやっていた。演奏前でまだ客もまばらなときだった。
 彼らはまずトイレをチェックし、店を見渡して警察手帳をみせながら私に声をかけた。

「キミいくつ?」
「十六歳です」
「何してるの」疑わしい眼。
「予備校の帰りです」
「予備校?日比谷高校でも受けるのか」
 そこで私は思わず笑ってしまった。私と同じ位の歳の子供がいそうな年配の刑事だった。
 カバンの中を検査されなくてよかった。カバンの中には覚えたての煙草が入っていた。

 大学二年のとき、ノンセクトの連中にデモへの参加を懇願された。今となっては何のテーマのデモかさえ忘れたが、断れ切れずに現地に行くと、わずか十名たらずの参加者だった。体が大きいからと私は最前列左端に据えられた。
 短いデモの隊列は、それでも盾をもってフル装備の機動隊と並んで歩いた。ときどき先導者の指示に従ってジグザグデモをすると機動隊から警告が発せられる。
 何度目かのジグザグデモで眼に余ったのだろう、「確保」の声とともに私は隣の機動隊員に腕を引っ張られた。
 機動隊員の腕力とともに、被扶養者の学生への敵意のようなものを感じ、それがショックだった。機動隊員の方も、私の戦意の無さでバリバリの活動家ではないと感じたのか、手の力を緩めた。
 後年ソ連と商売するようになり、公安警察の存在も知ることになる。ある部分同志のような関係である。
 親友Kは二年でロシア語学科を中退し、しばらく新潟の実家で逼塞していたが、あるとき実家に警察が来た。最近新潟港にロシア船の入港が増えたから、問題発生時の通訳をお願いしたいという依頼だった。
 さすがに彼は、キリル文字が読める程度でお役に立てないと断った。どうもロシア語学科入学時から報告が来ているようだが、成績の報告までは無いようだった。
 さらに後年ロシアの一般市民のKGBに対する敵意を知る。ロシアに比べれば日本は幸せである。
 今も白衣の看護婦さんと制服のお巡りさんはみないい人に見える。
 
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