ハマっ子ノスタルジー

『コーラ屋』
(第7話)
                              広瀬裕敏

 東京オリンピック前の横浜を思い出している。実家の話である。
 父の職業は清涼飲料水製造業だった。ラムネ、コーラのたぐいである。香料と色素と砂糖(あるいは人工甘味料)を調合して炭酸を加えればよいのだから、品揃えは豊富だった。クリームソーダというのは今のカルピスソーダの先駆けか。バーモントソーダというのもあった。バーモントカレーが発売される前から、バーモントの意味を知っていた。
 末期には大手に対抗して、中小企業統一ブランドで、コアップガラナを販売した。ドクターペッパーに似た味で、売れるわけないと思った。
 たまに調合を間違えて不良品がたくさんでると、それらは飲み放題だった。オレンジジュースを何本か飲むと、人工色素で舌がきれいに橙色に染まった。
 中古のアメリカ製の自動ビン洗浄機が導入される前はすべて手作業だった。コカコーラが本格的に上陸するまで、まだこうした零細企業もなりたっていた。
 工場の入り口の八畳ほどの事務所に、物心ついたときから、山下公園の風景画がかかっていた。バンドホテルあたりから大桟橋方面を俯瞰した構図である。ただ正確には、それは山下公園ではなかった。客船が多数停泊する大桟橋との位置関係からわかる、山下公園とおぼしき所には、米軍の高級将校の住宅が並んでいるのである。「接収」という単語も子供のときから知っていた。
 その風景画の隣には、祖父の肖像画があった。私が生まれたあと一月で他界したので記憶にはない祖父だった。小柄だが蝶ネクタイをして粋に構えた成功者の顔である。ラフィンとか、ウルキンソンとかいう炭酸水の老舗に丁稚奉公して、その後独立したのだと聞いた。
 あの洗浄機の騒音に、近所の苦情が無かったのは、営業時間がはっきり分かれていたからである。
 夜、工場の二階にある風呂に入っていると、隣の料亭から、三味線の音色と端唄と嬌声が聴こえてきた。
 「濱の日本橋」である。
 最盛期は30人くらいの会社だっただろうか。一年に一度従業員の慰労宴会があり、芸妓さんが二人くらい呼ばれていた。あれはご近所割引があったに違いない。芸妓さんの膝の上に乗せてもらった記憶もある。
 やがて歯が抜けるように社員が減り、1973年ついに工場をたたんだ。贔屓目に見ても、コカコーラの方があきらかにおいしかったのだからやむをえまい。
 軌を一にして、アメリカに含むところを持つようになり、ジャイアンツファンからホエールズファンに代わった。終いには大学でロシア語まで選択してしまった。
 天邪鬼とか判官びいきというやつである。
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