『麻雀』
(第70話)
後悔の多い人生だった。
節目節目の選択の後悔は数え切れない。仕事はともかく、あのとき真面目に人と向き合っていれば、という後悔は尾をひく。視線をそらし、話をはぐらかしたことが何度あっただろう。
でも結局そういう性格であり、そういう人生だった。こうした今思い出しても心が痛む後悔のほかに、同情に値しない後悔もある。
麻雀のことである。青春時代、そしてその後もこの遊びで貴重な時間を浪費してきた。
麻雀を覚えたのは高校二年の終わりである。最初は友人の自宅に集まった。本牧の畏友Hのバラックの離れ、一時期プチ家出したNの邸宅の和室、鎌倉のパン屋のIの二階などが主な会場だった。
浪人時代他の高校OBの連中も合流して、駿河台下の雀荘でやるのが日課になった。
麻布出身の連中も多く、たまに渋谷が会場になった。一度見知らぬ幼そうなメンバーがいたので、歳を訊くと中学三年生だという。先輩を見て反省材料にするのがフツーだが、彼の歳を知り将来を思って
心が痛んだ。
同級生でクラブチームを作り、毎週日曜日サッカーの試合があったが、試合が終わると大きなバッグを持って雀荘にかけつけた。
年二回中華街でサッカー部OBの宴会を開いたが、二三軒飲んだ後元町の裏の雀荘で朝までやる元気があった。
当時阿佐田哲也の「麻雀放浪記」はバイブルだった。
大学に入っても麻雀のメンバーには困らなかった。大学一二年のころの話は「劣等性ーオニのロシア語」で既に書いた。
大学三年のころから、サッカー同好会の後輩連中が主に相手になった。携帯電話が無い時代、メンバー足りないと教室まで呼びに来た。
会社に入って最初は同期がメンバーで、八重洲の雀荘に集合した。やがて先輩連中も加わるようになる。酒もそうだが、麻雀でも人間関係は広がるものである。
入社して十年近くたって、ようやくロシア部隊の麻雀メンバーに入れてもらえるようになった。ロシアにはゴルフ場もなく、出張に行っても他社の駐在員も加わって酒を飲むか、麻雀をする以外娯楽がなかった。
日本に居るときは、ボスのMさん、Hさん、関係会社のSさん、Iさんといったメンバーで、始めると必ず徹夜になった。
モスクワの長期契約したホテルの部屋には雀卓を常備していた。
一度ボスのMさんと数週間出張して、他社の駐在員連中と連日麻雀をした。私は異常に好調で、そのうち誘っても断られるようになった。Mさんは確か何号室かに日本人いるはずだから、電話してみろと私に命令した。インド人だそうですよ、とMさんに言うと、Mさんは私から受話器を取り上げて、近くに日本人は居ないかとインド人に詰問した。
そこまでして麻雀をやりたいかと、自分をさしおいて思った。
人生でどれだけの時間を麻雀に費やしたか、恐ろしくて計算できない。
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