放課後は
さくら野貿易
放課後のページ

ハマっ子ノスタルジー

       

       
 『ソ連のコールガール』
 (第71話)

 初めてモスクワに行ったのは1982年のことだった。
 ブレジネフ政権末期である。当然一国社会主義の異常さは耳学問として先輩からたくさん聞いていた。
 曰く、赤ラベルの(他の色ではダメなのである)マルボロが貨幣として流通している。マルボロひとつでモスクワ市内ならどこでも行ってくれる。
 タクシーといえばほとんど白タクで、外国人ならパトカーや救急車も止まってくれる。

 曰く、ソ連は印刷が悪いので、日本のカレンダーは喜ばれる。ヌードは税関で没収されるのでギリギリの水着がよい。
 我がロシア部隊は会社のカレンダー以外にも、社名入りで数種類の水着カレンダーを毎年発注した。水着の女性が微笑むポケットカレンダーも大量に作った。
 曰く、大事な話をするときは街を歩きながらすること。どこで盗聴されているかわからないから。この忠告は、まだ荷物運び程度の役にしか立たない私には不用だった。
 ただ商社マンや通訳の方で、しばらくビザが出なかった人を何人か知っていた。
 曰く、日本製のパンストはご婦人たちに喜ばれる。親しくなったら日本製コンドームなどは狂喜される。ソ連製ゴムは、その考えられない厚さから、指サックと呼ばれていた。
 そしてモスクワのコールガールの存在も聞いていた。
 相場は一晩百ドル(当時のレートで二万五千円くらいか)。女の子の家に行き、朝ごはんまでご馳走してくれることなど。
 ソ連政府が一般市民と外国人の個人的接触を嫌がり、恐れる時代だった。一般市民の家に行く機会など無いのだから、一度は行ってみたら、ロシア語会話の勉強にもなるし、と勧められさえした。
 そして、モスクワ滞在何日目かに、他社のお客さんや先輩たちと一緒に、初めてアルバートというレストランに行った。
 タクシーの運ちゃん連中から「トウキョーキャバレー」と揶揄されている、日本人向けコールガールが集まるレストランだった。
 建前上共産国にはコールガールは居ない。あくまで自由恋愛のスタイルをとっている。当時のソ連のレストランは、バンドとダンススペースが必ずあり、席に着いてしばらくすると、いつしか我々の席を囲むように座っていた女性たちが踊りに誘いに来るのである。
 女性からダンスを誘われたら断らないのがロシアのルールだと教えられていた。やがてスローテンポの曲が流れたとき、耳元で彼女たちは自宅に招待する。もちろん彼女たちも客にも選択の権利がある。
 私は初めての舞台に緊張しつつも、興味深深だった。その後長いロシアビジネスで、乞われて日本の客をそうした場に連れて行くことは何度もあったが、一通りアレンジをする「仕事」に徹していた。
 ただそのときだけは周りへの配慮の余裕も無く、私をダンスに誘った最初の娘が、あまり化粧がきつくないことだけで満足して、招待にすぐ同意した。
 彼女(名前も忘れた)に連れられてレストランを出ると、白タクの運ちゃんたちが溜まっていた。子供元気?という運ちゃんのからかいの声に答えもせず、決めた運転手がいるのだろう、まっすぐ前を向いて私の前を歩いた。
 子供いるんだ、と思った。結婚も早く、離婚も多いロシアでは珍しくもないことは、その後学習していった。
 彼女のアパートに着き、その公共部分の薄暗さ、汚さにびっくりした。これもロシアでは当たり前だということを、後に自由にロシア人の自宅に行けるようになってから知った。
 部屋の中は清潔できれいに整頓されていた。明るい部屋でようやく彼女が若くてきれいなことがわかった。当然のことながら子供は居なかった。
 彼女は大学生だと言っていた。彼女は日本のことをいろいろ訊ね、私は拙いロシア語でひとつひとつ答えた。
 日本でロシアの何が有名かという話になった。私が、映画監督のニキータ・ミハイルコフが好きだと言ったとき、彼女は眉をひそめた。
 彼女は日本人の無知を非難するように言った。ミハイルコフの父親は、共産主義礼賛の体制詩人で、そのおかげで多少党の意向と逸脱していても息子はは映画を作り続けられるのだ、というのが彼女の主張だった。
 彼女は隣の部屋から絵本を持ってきた。ミハイルコフの父親の詩が載っている絵本だという。彼女は私に読んで説明しながら、「こんなくだらないことを」と語気を強めた。
 私は彼女の早口の詩の意味もよくわからず、ただ彼女の怒りを見ていた。隣の部屋は普段は子供部屋なんだなと考えていた。
 やがて彼女は自らの興奮に気がついて、「私もこんな商売したくないけど」と下を向いて独り言のように言った。
 彼女が共産主義体制を憎むフツーの女学生であることは間違いなかった。
 次の日おいしい朝ごはんを作ってくれた。別れ際また会いましょうと彼女は微笑んだ。

 日本に帰国して調べ、ニキータの父セルゲイ・ミハイルコフはスターリン時代に作られたソ連国歌の作詞者でもあることを知った。その本人が、ソ連崩壊後、同じメロデイに今度は大ロシア礼賛の詩をつけた。
 そのニュースを聞いて彼女を思い出した。彼女はまた怒っているだろうと思った。あるいは彼女も歳をとって、ロシア人なんてそんなもんだと自嘲しているかもしれない。
 
【掲載作品一覧】