放課後は
さくら野貿易
放課後のページ

ハマっ子ノスタルジー

       

       
 『父』
 (第73話)

 父は埼玉の農家の次男だった。
 熊谷に近いその土地は、厚い関東ローム層で稲作に適さず、周りの農家と同様に父の実家も決して富農ではなかった。
 初めて父の実家に行ったときの記憶は蚕である。
 茅葺の屋根裏は蚕だなが一面に敷かれていた。蚕を手のひらに乗せられて、気持ち悪がったのを大人たちに笑われた。ひ弱な都会っ子だった。
 長男が長い兵役から帰るまで、父は商業高校卒業後も祖父母にとどめ置かれ、小学校の代用教員をしていたという。
 長男は十年近い軍隊生活を、最後に南洋で終えた。前線から外れて忘れ去られた南洋の島は天国だったと、後年伯父は言った。
 伯父が帰ると、入れ替わるように父は実家を出て、横浜の老舗企業に就職した。
 一方母方の父には跡取り息子が居なかった。祖父は父の会社の重役に婿養子になってくれる若手社員を打診し、父に白羽の矢があたった。
 その重役は俳優の石坂浩二のご尊父である。
 父がどうして婿養子になる決意をしたのか、父は死ぬまで子供たちには言わなかった。父は子供の前では寡黙であり、さらにそれは一言では言えないことだったのだろう。
 祖父は私が産まれた二ヵ月後に亡くなり、私が物心ついたときは、父は威厳のある大黒柱だった。
 私がいうことを聞かないとよく尻をたたかれた。顔をなぐられたことは一度もなかった。そういう信念だったのだろう。
 それだけに、一度だけ父が若い社員の頬を平手でぶったのを見たとき、ひどく驚いた。当然子供には理由はわからないが、若い社員は見返すこともなくずっと下を向いていた。
 もうひとつ遠い昔の記憶がある。どういうわけか夜父と私だけが一階の実家の会社の事務所にいた。事務所は石油ストーブで暖かかったから冬だったのだろう。
 ガラズの引き戸があいて、兄弟とおぼしき少年が二人寄り添うように立っていた。住み込みで雇って欲しいというようなことを、ぼそぼそと年長の方の少年が言った。
 当時まだ住み込みの店員もおかしくない時代だったが、父は断った。もう少し事情を聞いてやればいいのにと子供心に思ったが、もちろん口をはさむことはできなかった。
 父が冷淡でないことは知っていた。母が嫌う、母方の親戚の借金の依頼を父が受けたことが原因の、唯一に近い夫婦喧嘩も寝床の中で聞いていた。
 やがて小資本の清涼飲料水製造業は立ち行かなくなり、徐々に縮小して、最後は三十人近い社員は数人になり、瓶洗浄機が遅くまで聴こえるなか父は働いていた。
 高度成長期で転職も容易だったのだろうが、社員の人たちが解雇に同意したのは、父の人徳もあっただろう。父の死の一報もせずに、何人かの元社員の方にしかられた。
 父は死ぬまでロータリークラブの活動を熱心にやっていた。私が社会人になったあと、ロータリークラブなんてくだらないでしょう、と父に言ったことがある。父は、お前には学校の友達が回りにたくさんいるけど俺にはいないから、と答えた。心無い問いかけをひどく後悔した。
 父が亡くなって数年後、仕事で世話になった恩人が家に泊まることになり、何軒かのハシゴのあと家の斜め向かいの小料理屋に入った。
 その店が私が物心ついたときからあるのは知っていた。店はおばあさんと息子さんの二人でやっていた。
 広瀬の息子です、と自己紹介したとき、おばあさんは、お父さんには世話になったと、私に微笑んだ。
「浜の日本橋の門も、お父さんが複数の町内会をまとめて、お金を出し合って造ったんですよ」
 初めて知った話だった。花街「浜の日本橋」の電飾の門は、子供心にダサいと思っていたが、父が関っていたとは知らなかった。
 花街もさびれ、その門も今はない。
 
【掲載作品一覧】