「ブルーライトヨコハマ」
(第75話)
私は横浜市南区に今も昔も住んでいる。
中区だけが本当の横浜だろうという声には反論の余地が無い。
たとえば元町の商店街は、入り口から出口まで格調高い店舗が並んでいるが、南区まで続く伊勢佐木町は、馬車道側の入り口から徐々にローカル色が増していき、伊勢佐木町の続きのお三の宮商店街はもはや商店街の体をなしていない。伊勢佐木町をそぞろ歩く外国人船員も、どこで切り上げるかとまどったに違いない。
その伊勢佐木町の中ほどに古い楽器店があり、そこで青江美奈がキャンペーンをしてるのを見たことがある。ほどなく伊勢佐木町ブルースはヒットした。横浜でなくともいい歌だと思った。
後年その楽器店の前に伊勢佐木町ブルースの歌碑ができた。
一年後「ブルーライトヨコハマ」が大ヒットした。確か中学2年か3年のときである。
この歌でヨコハマのイメージが確立した。さらに高校生になると、ブルーライトヨコハマの歌詞のように、港の周辺をガールフレンドとそぞろ歩くのは悲願になった。
もっとも私の高校は大船の男子校で、涙ぐましい努力をしても、高校時代悲願のまま終わった。
やっとデートらしきことができるようになったのは、大学生になってからで、東京の女の子を拝み倒して横浜に来てもらった。
当時よく行ったのは、新しくできたザホテルヨコハマの最上階のバーである。もっとも港の灯りの助けを借りても、「いつものように愛の言葉を」ささやく技量も無かった。
後年高校のサッカー部のセンターフォワードKからダブルデートに誘われた。Kの会社の後輩の女性と、その後輩のインターナショナルスクールの同級生と横浜で会うという。
横浜山手のインターナショナルスクールの女の子とデートするのは、高校時代夢(横浜山手の女子高生を夢とすれば)のまた夢だった。しかも同級生は当時名の知れたタレントだった。
私は狂喜して、ニューグランドのメインレストランで待った。
彼女はテレビの派手なイメージと違い、シャイな女性だった。
何を話したかほとんど忘れたが、ひとつだけ覚えているのは、彼女が話した彼女のコンプレックスのことである。
インターナショナルスクールから上智の国際学部という学歴から、やはり日本語が不得意だという。
「ついこの間まで端午の節句を田んぼの節句だと思ってました」
ニューグランドを出たあと、横浜スタジアムのそばのシーメンズクラブに誘った。
私は彼女を気に入ったが、彼女と会えたのはこの一回だけだった。
彼女はその後ほどなくしてタレントをやめたが、今も横浜中区に住み続けている。生粋の浜っ子である。
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