放課後は
さくら野貿易
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ハマっ子ノスタルジー

       
   

       
 「ライバル中国」
 (第76話)

 入社した会社には「中国室」という部署があった。
 ソ連貿易部隊はまだ貿易二課の中にあったが(後年「ソ連東欧室」という独立部門になった)、特殊な国を相手している地域担当部署ということで、お互い意識しあう存在だった。
 大手水産会社は、エビ事業部とかカニ課とか品目によって分けられるものだが、当時主戦場だった北米事業部以外では、中国室と貿易二課のソ連部隊が、将来大きな取引国になるだろうと期待されていた。
 もっともライバル関係は、どちらが売り上げ利益を伸ばせるかという上司たちの思惑とは別に、ヒラの我々はどちらが商売相手として変わっているか、どちらの商売のほうが悲惨であるかというものだった。
 廊下で中国室の数年先輩のEと会うと、
「どや、ソ連商売は。中国と丙丁つけがたいからな」
と大阪弁で話しかけてきた。
 甲乙はおこがましい、丙丁というわけである。
 もっとも八十年代の中国は、文革の遅れを取り戻そうと必死になって門戸を開いた時期であり、沈滞と閉塞のブレジネフ政権下のソ連とは大きな違いがあった。
 中国室の一年先輩のKは、長岡高校、東京外大出の真面目な変わり者の友人だった。日本に研修に来た中国人技術者のふところ事情を配慮して、一週間昼牛丼屋に連れて行き、さすがに金曜日「私は別のもの食べます」と拒否された。
 一方ソ連からは一般の技術者が来れる時代ではなかった。漁業省や貿易公団のお偉いさんを高いしゃぶしゃぶ屋やすし屋に連れて行った。もちろんすべてこちら持ちで、ロシア人におごってもらうようになったのは今世紀に入ってからである。
 初めて中国に行ったのは1987年、大連だった。当時から中国室は、北京、上海、大連に駐在員事務所を持っていた。
 最初の中国での仕事は、大連の造船所でソ連の漁船の修理だった。造船所内でロシア語を話していて、中国側のロシア語通訳に、「私のロシア語は中国語訛りだが、あなたのは日本語訛りだ」と笑われた。
 大連はロシアと日本の面影を残しつつ中国だった。旧ヤマトホテルの窓から、広場で朝太極拳運動にいそしむ集団が見られた。朝食は五十円程度でひたすら美味しく、ソ連の地方都市のまずい飯を思いおこして涙した。
 カラオケ屋も大連に五軒あり、ヒマにまかして駐在所長とすべてまわった。
 何よりショックだったのは、テレビでコマーシャルが流れ、日本の衛星放送が見られることだった。
 衛星放送は将棋対局だった。対局者の長考中将棋盤を上から映したほとんど停止した画面を見ながら、もうライバルとは言えない中国の進歩を実感していた。
 カラオケ屋も衛星放送もテレビのコマーシャルも、ロシアで見られるようになったのはソ連崩壊後である。
 ソ連船修理の次の年、中国の乾燥タマネギ7百トンをロシアに売るという三国間貿易を成約した。ソ連の魚の缶詰工場の需要だった。
 ところが契約で決められた納期を過ぎても1トンもデリバリーされなかった。
 中国側の輸出者の大連の公司に言っても埒が明かず、生産者と直接交渉しようということになった。メインの生産者は新疆ウイグル自治区のハミにあるという。敦煌の北である。
 モスクワから北京に飛び、大連公司の代表と駐在所長と合流し、さらに自治区の首都ウルムチに飛んだ。
 ウルムチのホテルの部屋で日曜日、大連駐在所長はアンテナ線を張っていた。日本ダービーを聴くために彼は必死だった。
 ウルムチからハミまで天山山脈を越える夜行列車だった。
 到着した村では確かに乾燥タマネギを作っていた。工場では何十人もの少女たちがタマネギの破片を手作業で選別していた。四川省からの出稼ぎと聞いた。
 そもそも村自体、八路軍の一隊がウイグル自治区進攻を指示され、現地で帰農を命令されてできた漢人の村だった。
 村長始め幹部とおぼしき連中にウオークマンを配った。タマネギを搬出できないのは、ハミウリの出荷時期と重なって貨車が足りないからと言われた。
 メロンより甘いハミウリを初めて食べて、確かに安いタマネギでは負けると内心思った。
 宴会の席で、敦煌鉄道局の局長とかいう人間が酔っ払って、「お前気に入ったから貨車を分けてやる」と言った。ウオークマンが効いたみたいだった。それぞれの立場の人間がそれぞれの権力を笠に着るロシアと似ていると思った。
 結局ロシアに納入できたのは7百トン中2百トンだけだった。
 ロシアからのクレームもしばらく続いたが、ソ連が崩壊し輸入公団もなくなってウヤムヤに終わった。
 苦労の数はいい勝負である。
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