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ハマっ子ノスタルジー

       
   

       
 「思いやり」を「思いやる」
 (第77話)

 大学4年生のとき、ようやく就職の内定をもらったのに卒業できなかったことは、何度も書いた。
 2月の終わりにロシア語の専門科目を三科目も落としていることが判明した。
 高校の先輩でもあるU教授に相談し、先生はそれなりに奔走してくれて、二科目の教授は単位をくれることになった。
 ただもう一科目を担当したM講師は難航した。
「M先生は、私の首をかけても広瀬は落とす、と言ってるぞ」
U先生は苦笑しながら言った。
 この騒動の結末は、結局一般教養の単位もひとつ落としていることが判明し、問答無用の留年となった。
 ただこの騒動の中で、私はある授業のひとコマを思い出していた。
 M先生は和文露訳の講座を担当していた。M先生は日本人だが、サハリンで生まれ高校までソ連の学校に通っており、和文露訳を教えるのに適任だった。教え方は厳格だった。
 あるとき「思いやりを持つ」と「思いやる」は違うかどうかというくだらない議論になった。
 普段苦しめられている意趣返しもあって、私は違うと主張した。「思いやり」は確かに「思いやる」の名詞形だが、道徳教育の手垢がついて、本来の動詞の意味とニュアンスが違ってきていると説明したかった。
 ところが同じ劣等生連中の私への賛同の声にかき消され、単なる言い合いに終わってしまった。
 後日私のいない別の授業で、M先生は、どの先生に聞いても意味は同じだと言われた、と学生たちに蒸し返したと聞いた。根にもたれた、と感じた。
 ゴルバチョフ政権になって初めて外国人がサハリンに入れるようになった。私の初めてのサハリン行きはモスクワ経由だった。北海道の稚内から眼と鼻の先のコルサコフ(旧大泊)に行くのに、地球半周分以上の往復をした。
 日本の敗戦でサハリンに取り残された朝鮮韓国人一世の老人たちも、最初は警戒していたが、何度目かの訪問で私たちに話しかけてきた。
 「銀座はどうですか」
市場でおばあさんに声をかけられた。
 韓国から日本を経由してサハリンに渡るとき、東京で一回だけ銀座に行かれたとのことだった。戦前の銀座を記憶されているのである。
 「東京ラプソデイ」の一節を歌ってくれた。日本のラジオがよく聞こえるらしく、戦後の歌謡曲もよく知っておられた。
 やがて日本人との接触が問題にならないことが判ってきたのだろう、何人かの韓国人の方の自宅にも招待されるようになった。
 ひとりの老人は無国籍のまま通しておられた。いつか韓国に帰るためにソ連国籍は絶対にとらない、と言われた。日本人の私にロシア人の悪口をさんざんぶちまけておられた。
 韓国人に嫁してサハリンに残った日本人の女性も、日本食材不足を恥じながら手料理を振舞ってくださった。日本で投函したほうが早いからと、私に親族宛の手紙を託された。
 ここでM先生は育ったのである。私は彼の個人史を「思いやる」想像力に欠けていた。

 「大学5年生」でも書いたが、サハリン行きの空港でM先生と何度か会った。笑顔をむけるM先生に、目礼だけだったが、私の謝罪を感じてくれただろうか。

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