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ハマっ子ノスタルジー

       
   
残念!はずれでした。
       
 私の「横浜少年物語」
 (第78話)

 紀田順一郎翁の「横浜少年物語」を読んだ。
 氏は昭和十年、横浜本牧の生まれである。私よりちょうど二十年年長である。
 本の冒頭は、横浜の歴史、氏の家系、祖父、父母の性格、幼少期の本牧の断片的記憶が綴られている。
 氏の先祖はなんと江戸時代から本牧に住み着いている漁師だという。たどれば対岸の千葉に縁戚もいるそうである。
 浜っ子の域を超えている。中学高校の先輩に長く続く本牧神社の宮司がいることを思い出した。
 曽祖父の代に商売を始め、祖父の代にそれを整理して地主になった。祖父は教育を軽視していたが、氏の父はそれに反抗してY校(横浜商業)に入学し、二番で卒業して日銀に勤めた。決してインテリの家系ではなかった。
 氏の生地本牧北方町は、山手台地のすぐ南にある。氏が生まれたときは、既に元町から本牧に抜ける麦田トンネルも市電もあったが、根岸線が通る昭和40年ころまで、本牧は「山のむこう」であった。
 関東大震災で断水したとき、キリンビール発祥の地の泉の水を、リヤカーで山手に上って外国人宅に売り歩いたという、村の人のエピソードがでてくる。
 よく通いよく遊んだ畏友Hの生家も氏の家からすぐそばだった。本編にもでてくる、本牧街道と海岸通をつなぐ、見晴らしトンネルの本牧街道側の入り口付近にHの生家は位置していた。
 氏の思い出と同じく、山手の坂を下れば、なんとなく漁師町の香りのする下町の風景だった。
 空襲が激しくなって氏はまず箱根に学童集団疎開する。軍隊式の集団生活の苦労話が綴られている。横浜大空襲の火災ははるか箱根の山からみえたそうである。
 その後父を亡くし、田舎をもたない氏の母は、着物を持って食料の買出しに行っただけの縁で、小田原郊外に家族で疎開し、終戦と戦後の一時期を過ごした。
 昭和六年生まれの私の母も、同様に疎開を経験している。祖父の田舎は大分の山中、祖母は神戸の灘の出身で、疎開先とはならず、母は芸者上がりの祖父の二号さんの信州の田舎に疎開している。
 戦後氏が戻った横浜は、焼け跡と米兵が闊歩する基地の町になっていた。
 山手のみが外国人居住者が多いということで、空襲の標的からはずされていた。
 横浜の町の中心部の伊勢佐木町まで接収されていた。飛行場まであったと聞いている。

 伊勢佐木町にわずかに残った日本人向け映画館のオデオン座に連れて行ってもらったエピソードも綴られている。私が見続けたにっかつロマンポルノの映画館のすぐそばである。
 本牧では駐留軍向けのミルク生産のため牧場も造られた。前の会社の本牧に住む上司は、実家で牧場を経営していたと、酒の席の昔話をよくされていた。氏の本で存在が証明された。
 伊勢佐木町はおろか、山下公園を含め港の方はほとんど米軍に接収されていた。元町と中華街の間にあった祖父の炭酸水工場跡も接収された。短期間のうちに別の土地に工場を建てて操業を開始した祖父のバイタリテイに頭が下がる。
 小学校高学年になった氏は活字に目覚めていく。母親から電車賃をもらって、焼け跡の中を本牧から野毛まで市電で通っている。
 野毛には県立図書館と有隣堂の仮店舗があったからである。
 有隣堂は横浜の老舗本屋で、やはり伊勢佐木町の本店が接収され、野毛に一時期店舗があった。
 私も子供のころから今にいたるまで、折にふれ伊勢佐木町の本店の古いビルを覗く。本の香りは今もどの本屋よりも濃く、子供にはきつい階段の高さも今は心地よい。
 氏のキャリアの萌芽のごとく、市の作文コンクールで特選だったそうである。テーマが「米兵さん」というのが時代を感じる。街中で見る米兵が親切だったといった礼賛であった。
 氏の時代から15年くらい経った私の幼少期も、大人たちの米国批判は聞いたことがなかった。まだ自分や自分の家族のことで必死な時代だった。
 やがて氏が横浜国立大付属中学校を受験するあたりで少年物語は終わっている。
 私も教育熱心な母親の意向で、横浜国立大付属の小学校の方を受験した。
 受験前の幼稚園の帰りに、母親に連れられて見知らぬ家に行った。
 多分ツテをたどった先生の家だったのだろう。確か山手の共立女学院のあたりだった。私は自分の家のあたりを見下ろせる庭にいて、背後の居間で「大丈夫ですよ」と母が激励されているのを聴いていた記憶がある。
 ところが国立小学校らしく、試験は結局くじだった。兄に続いて私もはずれた。
 付属小学校も山手の高台にあったが、私と兄は磯子の砂浜に面した小学校に通った。

 氏が受験した当時の付属中学校の入試もくじだったことを知って笑ってしまった。

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