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ハマっ子ノスタルジー

       
   

       
 「どこの国が好き?」
 (第79話)

 まだ日本が二等国の時代の話である。
「どの国が好き?」
「どの国に生まれたかった?」
幼稚園や小学校低学年のころ、一度ならず親や教師に聞かれた。
 「アメリカ!」
大多数の子供がそう答えた。横浜には芝生に囲まれたこぎれいな米軍住宅がネットごしに拡がっていた。テレビでは豊かで幸せそうなアメリカのホームドラマを観ていた。
 そのうち子供なりに知識が入ってくると、イギリスとかフランスとか多少バラエテイがでてくる。
 「やはり日本」と答える子供はいなかった。設問が日本以外という前提があると思っていたし、前提を無視してまで日本と答えるには、日本はまだ見劣りした。
 私も一度「スイス」と答えたことがある。「どうして」と聞かれ、「永世中立国だから」と舌足らずに理由を述べた。おそらく多少学のある大人の受け売りだったのだろう。
 道端でアメリカ軍人や外国船員に会うことがあっても話したことも無く、外国はまだ映画や本やテレビの世界だった。
 そもそも地図を見るのが好きだった。日本地図も世界地図もである。
 地理という科目が唯一の得意科目になった。都道府県名を覚え、昔の国名を覚え、さらに細かい地名を覚えた。別に才能があったわけではない。ただ見知らぬ土地を想像するのが好きだった。
 世界地図も然り。アメリカの広さにため息をついた。ルート66をなぞり、ローハイドの牛の群れの終着地をチェックした。
 初めて外国人と話したのは中学に入ってからである。
 ここで言う外国人は白人のことである。もちろん横浜だから、中華街の中国人や在日朝鮮韓国人もおり、小学生のとき会話をかわしたことがあったかもしれない。ただ当時はアジアに眼を向ける能力も環境もなかった。
 ミッションスクールだったその中学校で、アメリカ人以外いろいろな国の神父さんがいた。
 中学一年の英語教師は太ったドイツ人の老神父だった。
質問に答えられないと、彼は両手で生徒の頭を持ってもちあげた。足をバタバタさせながら、その体罰は不快ではなかった。
 そもそもその学校は校長、副校長ともドイツ人で、規律を重んじる学校だった。
 朝礼で校長は「トリのマキで勉強してはいかん」と訓示を垂れた。後から敬愛する担任のI先生が苦笑交じりに「虎の巻」と訂正した。
 中三のときの英語教師は若いアメリカ人の修道士だった。
 ブルックリン生まれの彼は野球もうまく人気者だった。後年日本人と結婚し聖職から離れた。結婚式で野球部の仲間と一緒に彼を胴上げし、あまりの重さに落とした。
 さらに後年彼は在日アメリカ大使館に外交官として赴任してきた。
 一度やはり日本人と結婚したチェコとハーフのロシア人を連れて飲んだとき、彼は別れ際、何かあったら連絡するように、と友人のロシア人に名刺を渡した。
 彼はスロバキアからの移民二世だった。
 高校に入ってスペイン人神父と仲良くなった。
 結構ワガママな神父で、ドイツ人神父支配層の悪口を聞かされた。
 後年東京の在日外国人サッカーリーグの試合で、スペイン人プレーヤーとドイツ人レフェリーの大喧嘩に立ち会った。相性の悪さは知っていたので驚かなかった。
 やはり外国人だらけの大学を経て、社会人になって様々な国の人間とつきあった。

 総じてある国で二人以上「いい人」に会うと、その国が好きになるようである。
 一方あまりつきあいのない国は、最初に会った人間で大きく印象が左右される。
 子供のとき好きと言ったスイスだが、今はいい印象をもっていない。
 大学時代後輩の練習試合を見ていて、あまりのラフプレーに退場になった外国人がいた。
 サイドラインの外から「ゲットアウト」と私は叫び、その外国人は「あなたでなさい」とファイテイングポーズを取った。丁寧語しか話せない日本語のレベルだった。
 後から彼がスイス人と知った。
 たったそれだけのことで母国の印象を左右するのだから、私も外国に行ったら気をつけようと思っている。

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