ハマっ子ノスタルジー

『ゴールキーパー』
(第8話)
                              広瀬裕敏

 性格がゆがんだのはコカコーラのせいだけではない。
 中学一年生の二学期に学校でサッカーを始めた。学校の教育方針とかで、どこかひとつのクラブに入ることを義務付けられた。希望を複数だすように言われ、第一希望を硬式テニス、第二希望をサッカーにした。
 あの頃すべての判断基準は、どうしたら女の子にモテるかに尽きていた。
 ただサッカーを第二希望にしたのは、当時のテレビの学園ものの影響も大きい。「青春とはなんだ」「これが青春だ」「でっかい青春」と続くシリーズは、ラグビーとサッカーを交互にやっていた。わが母校にはラグビー部はなかった。
 一学期間で教師は私の性格と品性を判断したのだろう、交渉の余地無くサッカー部入部を宣告された。
 人生の選択を強制された第一の岐路である。
 当時サッカーはマイナーだった。日本リーグというJリーグ前身の社会人リーグは数年前にでき、東洋工業(現マツダ)が連覇していた。
 世界レベルのサッカーは、ワールドカップの記録映画以外では、唯一「三菱ダイヤモンドサッカー」という30分番組で、英国サッカーを垣間見ることができるだけだった。ボビーチャールトン、ジョージベストの時代である。
 中学二年のとき、メキシコオリンピックで日本代表が銅メダルをとった年、練習が終わってコーチに呼ばれた。
 「ゴールキーパーやらんか」「―はあ」
 同学年の部員は23名おり、既にゴールキーパーは一人いたが、チーム構成上もう一人必要なのは理解できた。
「フィールドプレーヤーならベンチ。ゴールキーパーならレギュラーになれるかもね。」
 選択の余地のない、第二の強制である。
 当時、炎天下でも水を飲むことは禁止された。膝に負担満点の階段うさぎ跳びが練習のしめだった。原始時代である。
 サッカーボールは、ゴムチューブをいれる口を皮ひもで縛ってあった。雨の日、ボールは水を吸って重くなり、ヘデイングのときそのひもにあたると、痛くて眼から本当に火花が散った。
 ゴールキーパーになってヘデイングからは開放された。その代わりに、すべての指は突き指し、ひじひざや腿の裏は常にすりむいていた。かさぶたを剥く快感は毎日味わうことができた。
 今は中田、中村、小野などタレントが中盤に集中するが、当時フォワードから人気、実力とも逆ピラミッドになるのが常識だった。ヨーロッパではキーパーも人気があるといわれたが、サッカー後進国の現実は違っていた。
 中学3年のとき、チームが県で優勝候補といわれ、私のゴールキーピングも評価され始めた頃、あっさり私のミスで敗退した。
 そのときのメンバーは今でも無二の親友だが、いまだにあのとき優勝できなったのはおまえのせいだと言われる。お互い何のしこりもなく、笑って非難し、苦笑して認めることができるようになるには、かなりの時間を要した。
 高校サッカーの全国大会でたまにキーパーが決定的ミスをし、あるいは甲子園で内野手のトンネルが決勝点になるのを見たとき、肩をたたいて「がんばれよ」と声をかけてやりたくなる。
 そのミスの後、高校時代平凡なプレーヤーとして過ごし、高校の終わりにキーパーの勘どころをつかんだ。
 正確に言うと、後から考えると、あの頃キーパー的な性格に変わった。
 キーパーの要諦は、いるべきところにいて、するべきことをする、結果は後悔しない、これに尽きる。
 気がついたら、一種独特の運命論者になっていた。
 サッカーはJリーグ開幕まで長い冬の時代が続いたが、最後の砦の緊張感は心地よく、ひたすらゴール前に立ち続けた。
 三つ子の魂である。
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