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さくら野貿易
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ハマっ子ノスタルジー

       

       
 「テレサテンへのラブレター」
 (第80話)

 あなたを初めてお見かけしたのは、テレビの歌番組で「空港」を熱唱されていた1974年のことです。
 あなたは外国人訛りもなく、延びのある清らかなビブラートにすぐファンになりました。何より眉をひそめてサビを歌うあなたの丸顔が大好きだったのです。
 1976年から77年にかけて、あなたは「夜のフェリーボート」「ふるさとはどこですか」「あなたと生きる」とヒットを飛ばし歌番組の常連になりました。
 レコードでは聴けないのですが、あなたはナマで歌うとき、ときどき息継ぎのときに声がひっくりかえることがあって、それがひたすら可愛く、あなたの出演番組を追いかけました。ドリフターズの番組にも楽しそうに出演されていましたね。
 当時あなたは新宿のルイードというライブスポットによく出演されていました。いつか聴きに行こうと思いつつ、新宿といえば友人とジャズのピットインに行ってしまい、ついにあなたをナマで見る機会を失ってしまいました。
 当時私は大学生で、毎年九月に秦野でサッカーの夏合宿をしていました。練習が終わって後輩のNたちと秦野の市内に呑みに行き、カウンターの土間と小あがりだけの居酒屋に寄りました。
 居酒屋には珍しくジュークボックスがあって、それを覗くと半分があなたの歌だったのです。店の主人は「テレサテンが好きでね」と調理の手を休めずに言いました。
 私とNは狂喜してジュークボックスに入っているあなたの歌をすべて聴きました。毎年その店に行くのが楽しみになりました。
 1979年、あなたがパスポート偽造で日本に入れなくなったというニュースを聞きました。誰が勧めたのか、とてもアジア的だと思いました。
 79年は私の学生最後の年で、その店の一夜は、店の主人を交えてあなたを讃え偲ぶ会になりました。
 ただ私には大きな落胆はありませんでした。日本が無くともあなたがアジアで活躍されることはわかっていたし、私が就職したあとアジアのどこかであなたの活躍に接することができると思っていたからです。
 事実後年初めて香港に行ったとき、あなたの中国語のカセットをたくさん買い込みました。中国語のあなたは日本の歌以上にすばらしいものでした。
 仕事にも慣れてきた84年、あなたは日本で活動を再開されました。
 「つぐない」「愛人」「時の流れに身をまかせ」と、いわゆる不倫ものを歌われても、あなたは清楚で一途な印象をなくされませんでした。
 ロシア出張も多くなり、トランクに都はるみとあなたのカセットを常に入れていました。
 モスクワや地方都市のホテルの窓からロシアの日常の風景を眺めつつ、あなたの歌をずっと聴いていました。外国では滞在が長くなればなるほど、ジャズやフォークではなく、あなたの声が聴きたくなるのです。
 あなたをテレビ番組であまり見かけなくなったころ、ロシア部隊のボスのMさんに連れられて、銀座のクラブに行きました。そのクラブのママがあなたそっくりだったのです。
 気の強そうな彼女の性格も気に入って、Mさんと私のひいきの店になりました。なけなしの小遣いを使っても通いました。
 やがて何度かデートし、店の海外慰安旅行にも連れて行ってもらいました。
 そのうち店に顔を出すと、「広瀬さん、結婚しよ!」と声をかけられ、本気にしていいものか計りかねていました。
 あるとき
「何もしないでも私のほうから熱をあげるほどすごく好きというわけではないのだから、あなたの方から何かアクションおこさなければダメよ」
といった意味のことを言われました。
 私は黙ってしまいました。彼女が年上であることも、水商売も、一度家庭や子供を捨てたことも気にはならなかったのですが、彼女の過去のある一点がひっかかってしまったのです。
 私たちは再び店のママと親しい客の関係に戻りました。
 あなたが香港の富豪との婚約を破棄して、歌い続ける道を選ばれたのに比べ、私は過去にこだわるつまらない男でした。
 1989年東欧が揺れ、ロシアが揺れていました。中国も民主化運動の波が拡がっていました。
 香港の民主化運動支援集会で、あなたが飛び入り出演し、「ふるさとは山のむこう」という歌を歌われたというニュースが入ってきました。一度出演を断ったのが、矢も盾もたまらずノーメークジーパン姿で駆けつけたそうですね。私は心の底から嬉しかった。後で映像を見て涙を流しました。
 天安門事件が起きたのはその一週間後でした。あなたはさぞやショックだったでしょう。自分が、自分の影響力が若者たちを殺したとさえ思われたのではないでしょうか。あなたは「山のむこう」で歌いたかっただけなのに。
 89年は「香港」と「悲しい自由」をリリースされましたね。作詞家荒木とよひさがあなたの悲嘆を慮ったのだと思いました。
 1995年突然あなたの逝去の報に接しました。
 中国は共産主義政権下で経済発展が始まり、ロシアは略奪資本主義の混迷の真っ只中でした。
 あなたがタイのチェンマイというアジアの片隅で、フランス人の若い愛人に看取られて逝ったことに、何か救いのようなものを感じていました。テレサはあなたのクリスチャンネームだそうですね。
 没後発表された様々な刊行物の中に、あなたの手稿の中の詩がありました。いつどんな気持ちであなたはこの詩を書かれたのでしょうか。

  星願 (日本語訳 佐井芳男)

過去を思うと堪えがたく
世の事がらを予想するのは難しい
煩悩を詩に綴ることはしないで
短い夢も長い夢も皆同じ夢。

すべてみんなこれは年少のころの野心のため
一生は雨に打たれ浮草のごとく浮き沈む
天のはてのどこに己をわかってくれる人がいるのか
ただ嘆き悲しむのは歌と舞が美しい色の雲のように
ちりぢりに飛んでいってしまうことだ。

全てみんなこれは水のように柔らかい情の為だった
常に月の朦朧さになるのもよし
なぜ花を看ているのに 花は語ってくれないのか
これは多情が無情にかえられたのじゃないかな

ロウソクの火は何も語らず一人眠る人を照らす
愛情は苦しい海に浮き沈みをまかせる
花が落ちることはいかんともしがたい
唯長江の水は黙々と東に向かって流れている。

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