放課後は
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ハマっ子ノスタルジー

       
ドラ猫一家
       
 「小学6年生」
 (第84話)

 私は鼻持ちならないガキだった。
 東京オリンピックの狂騒が終わって、日本が自信を取り戻したころである。
 学校の成績はよくできた。小学校1年生からクラスで一番を通してきたが、5年の終わりの横浜の予備校の模擬試験で二番をとり、さらに増長した。
 6年生の毎日曜日通っていた東京の予備校の模試でも常に10番以内で、成績に関してはわが世の春を謳歌していた。ただ横浜で一番ではなかった。順位表の一番には常に横浜北部の公立小学校のZの名前があった。
 もっとも成績がよいだけで子供の間で人気があるわけではない。
 私の学校は二年ごとにクラス替えが行われていた。すなわち5年6年のクラスは同じだった。
 その中で男子生徒はグループが二つに分かれていた。
 ひとつは昔から磯子に住んでいる子供たち、もうひとつは新たにできた巨大団地の子弟である。言い換えると、1年生から通っているグループと、転校生のグループである。1年生のとき2クラスだった学校が5年のときは4クラスだから、計算上も勢力は二分されていた。
 前者のガキ大将は私で、後者のそれはTという外見はさえない子だった。
 Tは成績も中位で、体格的にも大きくないが、男の子たちからは抜群の人気があった。

 Tが人格者だったわけではない。イジメの対象を見つけるのは得意だったし、自分の意向に沿わない者を排除したりした。事実彼のグループから私のグループへの移籍者もあった。
 一方で仲間への気配りがあったのだろう。自分のグループを維持する熱意と言ってもよい。
 Tは自分のグループを「太陽同盟」と称し、肩を組んでよく示威行為をしていた。そのうち私のグループにも名前をつけようという要望が強まり、私が提案した「ドラ猫一家」がすんなり採用された。「太陽同盟」に対抗してうんとクダラない名前にしたかったのである。
 ふたつのグループが敵対していたわけではない。単に巨大団地方面と古い磯子の町並みと、帰る方角が違っていただけかもしれない。
 一度放課後、校庭の演説台の下にもぐりこんで、同盟の契りを結んだことがある。Tはそういうことが好きだった。
 6年生の席替えのとき、温厚な担任のN先生は、Tと私を最前列の端の席に並んで座らせた。N先生なりの配慮だった。
 6年生は前期と後期に分かれて、生徒会の選挙があった。四つのクラスで一人ずつ候補が立候補して、委員長副委員長書記を選ぶのである。私のクラスの候補者選挙でTが選ばれ、本選ではわずかの差で副委員長になった。結果の放送を聴いて、Tは隣の席でハアと息を吐いた。
 何が原因か忘れたが、一度だけ私が彼の胸ぐらをつかんだことがある。彼は何も抵抗せず涙を流した。
「オレはお前が好きだから」
彼はポツリと言った。たった一度の衝突は衝突とも言えずに終わった。
 6年生にもなると女の子のほうがよっぽど大人である。おそ松君のイヤミのシェーを連発するガキたちを女の子たちは冷ややかに見ていた。一方ワルガキたちは、女性に変わり始めた同級生の女の子をまぶしそうに見るだけだった。
 たまにワルガキたちの悪さが過ぎると、普段おとなしいNという女の子が注意した。彼女の言葉には皆従った。ご両親は沖縄出身で、小柄で色が黒いが眼がきれいな女の子だった。猫背にならぬよう後ろ手で組む姿勢がいいと教師に言われ、授業中彼女はその姿勢を崩さなかった。
 彼女が横浜の名門F女学院に行ったのち、一度だけ会った。共通の話題を見つけるのに苦労した。
 クラスの二つのグループはメンバーが入れ替わり、中学受験をするグループと、そのまま公立中学校に進むグループに変わっていった。Tとの友情と、二つとグループの安定した関係は変わらなかった。
 私は後期の生徒会委員長になった。それと機会をあわせるように、一組(私は四組だった)のKが決闘を申し込んできた。放課後校舎の裏に来いというのである。
 Kはアメリカ人とのハーフで体も大きく、一年のときからよく知っていた。理由は単に生意気だということなのだろう。ハーフが自慢になる時代ではなく、彼の苛立ちは子供心に理解できた。
 私はTと一緒にクラス全員で囲むとか、いろいろ考えたが、結局無視することにした。

 Kは約束を無視するとはキタねえなと、クレームをつけてきたがそれも無視した。学年全体のガキ大将になるとか、そんなことはもう関心がなかった。
 後年Kが神奈川のスポーツ名門校のバスケット選手として名前が知れたとき、妙に嬉しくなった。
 地域限定だが彼が同じ小学校の初めての有名人になったのである。

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