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ハマっ子ノスタルジー

       

       
 「ロシアとのつきあいの断片」
 (第85話)

 このエッセイは80年代までの昔話を書いている。横浜の60年代から80年代の個人的風景を事実のまま描いている。
 ついでに75年からつきあうことになったロシアのことを書こうとしている。
 ところがロシアのことはなかなか筆が進まない。愛憎半ばするフィルターが濃すぎるのである。そして結論がまだついていない。
 いや、感情的結論などつくものではないのかも知れない。今、ロシアとのふれあいを断片的に書こうとしている。

 ロシア語学科に入学が決まった3月、新宿ゴールデン街でロシア風居酒屋を見つけた。

 キリル文字を覚える前に。ウオトカはストレートで飲むものだということを知った。

 その店のマスター夫婦は、加藤登紀子の両親のロシア料理屋で働いていて、独立したとのことだった。加藤登紀子がハルピン生まれであることもそこで知った。
 さらに大学一年生のとき、新宿のションベン横丁で「コーシュカ」というカウンターだけのバーを発見した。コーシュカは猫ちゃんという意味である。後で聞いたらほとんどのロシア関係者の知っている店だった。
 カウンターの中で座っているロシア人のお婆さんに、壁の大きなロシア美人の写真を指さして、「きれいですね」と言うと、「私の昔の写真」と自慢そうに応えた。
 革命後亡命して日本にたどりついたそうだ。苦労は彼女の笑顔からうかがい知れなかった。
 会社に入ってから、仕事で世話になった業界団体の嘱託の老人は、シベリア抑留帰還者だった。ロシア関連の仕事の窓口を年とってからまかせられた皮肉を自分で笑っていらした。
 深刻にならない抑留時代の笑い話をときどきしてくれた。
 初めてモスクワに行ったときは、空港のイミグレーションから緊張した。通関でタバコをたかられた。
 モスクワのホテルの前のタクシー乗り場で、ひとりのロシア人に横はいりされた。抗議すると、「私はコルホーズの議長だ」とか言ってどこうとしない。「それがどうした」とまでは言ったが、私のロシア語能力でそれ以上続かず、憤りとともにとり残された。
 ただ思い出してみれば、ソ連時代空港や警察のタカリを除き、眼に見える悪意はその一回だけだった。
 プライベートでロシア人とつきあえる機会も少なく、ウクライナで看護婦さんと知り合えたのは僥倖に近かった。
 後にロシアになって極東で暮らして、ロシア人のいいところも悪いところもいやというほど知らされた。
 初めてのプラントサイトで世話になった通訳の人と帰ってから東京で呑んだ。
 彼は社会党議員の息子で、モスクワの大学に留学しており、高校まで暮らした議員宿舎のある四谷で呑むことにした。
 待ち合わせ場所の四谷駅前に彼は外国人の女性と来た。離婚した奥さんで、大学時代知り合ったチリ人だという。チリがアジェンデ政権の時代である。彼女が急に日本を訪ねてきてのだそうだ。その女性と別れて呑みはじめて彼は荒れた。
 だいたいロシア人と結婚した先輩連中は酒癖の悪い人間が多かった。もちろんすべてではないが、ロシア商売を続けているとアル中になるのではと思った。
 
 広瀬武夫が祖父と大分の同じ村の出身であることは母から聞いていた。
 それもあって16歳のとき、九州一周一人旅の途中で豊後竹田を訪ねた。広瀬神社を訪ね、国家補助を戦後絶たれ窮状を訴えるたて看板に苦笑した。
 その後、「坂の上の雲」を読み、さらに島田謹の「ロシアにおける広瀬武夫」を読んだ。
 80年代の終わり、福岡での仕事が三日中断した機会をとらえ、竹田を再訪し、そのときはさらに阿蘇に近い村の広瀬武夫の墓に参った。
 広瀬神社の記念館で、ロシア貴族の恋人から送られた肉筆の手紙を読んだ。外国人にも読みやすいきれいな文字だった。
 ロシアに真剣に向き合った先達のことをもっと知りたいと思っていた。

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