「町並みの記憶」
(第89話)
日本の戦争映画でこういうシーンがある。
学徒動員で特攻隊に入り出撃を待っている慶応の学生二名が、銀座通りの全店舗名を思い出そうとしている。
銀座通りの地図に店舗名を書き込んでいくが、どうしてもひとつだけ思い出せない。
出撃が決まりパイロット席に向かう一人が、最後の店舗名を思い出し、戻って書き込み満足して飛び立つ。
銀座通の慶応ボーイというのがミソで、戦争の悲劇をきわだたせる。
かなり程度が落ちるが、わが「浜の日本橋」を思い出している。
1960年代前半のの風景である。
浜の日本橋は、鎌倉通りと市大通り(横浜市大医学部があったことによる)、磯子に向かう16号線と掘割川に囲まれた一画を通称している。
鎌倉街道を港方面に行くと関内駅、さらに本町通りに突き当たる。市大通りは、横浜スタジアム脇と中華街北門を通り、最後は大桟橋である。
そもそも関内、関外とも江戸時代後期まで遠浅の入り江で、末期に埋めたてられ吉田新田と称した。
さらに開港後町並みが広がるにつれ、まったく新たに町名がつけられていった。謡曲からつけたそうで、鎌倉街道側から細長く区切られて、吉野町、新川町、二葉町、高砂町という町名になった。
わが生家は、高砂町の一番双葉町寄りの角に位置する。
もの心ついたときはまだ日本橋の通りも舗装されていなかった。高砂町と双葉町を区切る路地の舗装はさらに後年のことである。
向かいには大きな酒屋があった。木彫りの大きな看板と奥行きのある暗くてひんやりした店内は、子供には入りづらい雰囲気だった。
さらに当主の老人が怖かった。私の祖父や父とは親しかったらしいが、運転手つきの外車の後部座席でふんぞりかえる姿を見かけるだけで、話をしたこともなかった。酒屋はそんなに儲かるものなのかと子供心に思った。
たった一度だけ声をかけられた記憶がある。高校のころ私の長髪を見て、「おまえ、小遣いやるから髪切れ」と数千円渡されたのである。
一方この老人の奥さんはきさくな人で、よく母と世間話をしにわが生家に来られるていた。この奥さんは和服以外見たことはなかった。
老人が一度「利き酒の名手」としてNHKの番組にでた。においを嗅いだだけで特級酒、一級酒、二級酒を言い当て、口に含んだだけで、灘、伏見といった産地を正解した。エラソーなだけの老人ではなかったのである。
右隣は大きな庭と平屋の日本家屋だった。工場の二階の自宅で飼い猫とケンカして、最後に猫は私に一撃を加えて、隣の平屋の屋根に跳んで逃げた。悪童が絶対追いかけられないことを知っていたのである。
この家のさらに隣は果物屋だった。数歳年上のこの店の子供は、近所の子供の遊びを統率し、イジメをたしなめる人格者だった。
そのさらに隣は和服のクリーニング店(昔の言い方でなんと言うか忘れた)だった。
向かいの右隣は質屋だった。大きな土蔵があったのを記憶している。
路地をはさんだ向かいの左隣は小料理屋で、これは今も続いている。
自宅の路地をはさんだ左隣は料亭で、さらに数件の料亭の板塀が続いた。
左隣の料亭の三味線の音色と芸者さんの笑い声が風呂の時間のBGMになった。
さらに鎌倉街道に向かって進むと、「幸亭」という洋食屋があり、続けて床屋と卵屋と煙草屋があった。
その先の角を左に曲がると、魚屋があり、そろばん塾も経営していた。ここに一年通った。
そのまままっすぐ行くと鎌倉街道につきあたる。角は一時期ガソリンスタンドもあったが、スタンドが開業する前料亭だったのか、何かの店だったのかどうしても思い出せない。
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