「正義の見方」
(第90話)
もはや戦後ではない年に生まれた。
父は零細企業の二代目だが、大手に押されて、会社が徐々に縮小して、ついにはたたむことになったときも、苦労を子供に漏らすことはなかった。
それは徹底していた。むしろ子供が金の話をすることを極度に嫌った。
母が教育熱心すぎる嫌いはあったが、総じて両親の基本教育方針は「実直」と「勤勉」であった。
それは多分商人の基本でもったのであろう。同時にあの戦後昭和の時代の「正義」だったのではと思っている。
「嘘をついても神様がみてますよ」
「そんなことして恥ずかしいと思わないの」
母の、幼い私をしかるときの口癖である。
家は神棚と仏壇がある、普通の日本人の家庭である。
当時廻りのほとんどの人たちは、勤勉で実直だったような気がする。
戦争に負けたこと、貧しいことは誰のせいでもなく、不満を声高に主張するインテリの大人もいなかった。
中学でいわゆるエリート校に入り、マスタベーションを覚えたのとほぼ同じ時期に、「悩む」ことも覚えた。
おりしも大学は揺れており、ようやくその余波が鎌倉のカトリックの中学高校にも及び始めた時期である。
成績に一喜一憂するのに何の意味があるのか、社会から隔絶したプチ象牙の塔にいるだけでよいのか、そもそも自分は何の意味があるのか。漠とした悩みをほじくりだすような作業の日々だった。
近くにあったカトリックに救いを求めた。これは半分正解だったが、多分半分は逆効果だった。
横浜山手カトリック教会の若者の集まりで、二年上の女子高生に、社会の見方を教えられた。無菌培養の男子校生にとっては彼女はある意味「悪魔」のような存在だった。
つまりカトリック教会に入れてもらったのと同時に、教会のぬるま湯のように暖かい場所にいるだけでは駄目だと教えられたのである。
高校から浪人にかけて、サッカーと麻雀以外ひたすら本を読んだ。
大学で全共闘世代の神学生に会い、引き回されるような形で「運動」の真似事をした。
社会人になってソ連の現実を観た。「ソ連」という怪物がロシア人や周辺民族にもたらした不幸を感じつつ、現実に商売がひとつひとつできるのは楽しいことだった。所詮私は「対岸」の人間だった。
社会人になって数年後、母校の大学のカトリックの学生団体に、シンポジウムのパネラーとして呼ばれた。クリスチャンとしての職業だか社会といったテーマだったと思う。
演壇に立って調子よくロシアビジネスの話を始めたが、突然何も話せなくなった。下をむいてもごもごと口の中で言いよどんだ。汗が流れた。自分は話す資格がないのだけはわかった。
質疑のとき、学生からの不満のコメントが痛かった。
同じくパネラーを勤めた、教育者になった同期の女性から「学生には社会人の苦労はわからないから」と慰められた。
さらに控え席で縮こまっていた私の肩に、たまたま来ておられたH司教が手をかけてくださった。
混乱が続いて前後は覚えていないが、H司教は「わかるよ」とおっしゃった。後年H司教は枢機卿までのぼりつめ、昨年亡くなられた。
あれから二十数年たっても未だに「正義の見方」はわかっていない。
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